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『楫取素彦と吉田松陰』
【2013/07/02 13:13】 エッセイ
『吉田松陰と楫取素彦』

実は、この二人は義理の兄弟の関係である。それは、松陰の妹「壽」が楫取に嫁いだことによる。松陰には三人の妹がいた。千代、壽、文である。 明治14年「壽」は病死してしまうが、その下の「文」は久坂玄瑞に嫁いだ。しかし久坂は「禁門の変」で自刃してしまい、以後「文」は再婚しないでいた。県令という多忙な仕事についていた楫取の窮状を知った、母の「たき」は文に再婚話を持ち掛ける。しかし、答えはノーであったが、「たき」は、再三にわたり説得して、これを実現させた。此の時「美和」と改名して再婚する。つまり、楫取は、吉田松陰の妹二人を嫁にもらうことになったのである。「壽」が嫁いだ時は小田村、そして「美和」が嫁いだときは楫取と改名していた。
嘉永四年(1851)松陰は江戸に遊学した。だが学問よりも知識を売るといった江戸の学者の在り方に、松陰は期待外れとの思いを抱く。同時に、吉田家の家学としての山鹿流兵学への疑問も湧いてくる。必死に人生を賭けて学んだことが、西欧と比べて著しく時代遅れであることを思い知らされる。

吉田松陰とその門下25.5.6


日本古来の兵学は時代遅れであるとの思いが日に日に強まってくる。そんな思いを抱きながら、「梁山泊」の観を呈した「蒼龍軒」に集まる、あちこちの藩士である志の高い若者たちの集まりで、松陰はロシアの南下政策の一端として、津軽地方の紛争を耳にするのである。オロシャ人が、津軽半島に上陸して狼藉を働いているという。
「クニ」を守ることを第一義とする兵学家としては、聞き捨てならない情報であった。早速に鎮西遊学で終生の友となった、同じ山鹿流兵学者の「宮部鼎蔵」とともに、東北の海防視察で合意し、「藩」(毛利藩江戸上屋敷)に願い出る。それは、すぐに受け入れられた。

そして出発直前に「他国通行手形」である「過所手形」の発行されていないことに気付いて、藩政府(江戸上屋敷)に確認すると、藩主は郷里(長州)での災害のために、急遽帰国しており、認めの証明書である「印形」の手続きが出来ないという。宮部らとの出発日時を約束してしまった松陰は、約束を守るか、藩の正式な許可を採るかの二者択一の選択を迫られる。そして、藩主を見捨てる「出奔」を選択する。これは、稽古切手という、江戸の上屋敷から外出する許可証で外出からの規定日時を無視した「脱藩」という、許されない藩士としての行為であった。

およそ半年に及ぶ大旅行を終えて帰国して見ると、待っていたのは脱藩の罪であった。すぐに帰国(長州へ戻る)して、藩の決裁を待つ身となる。この間の事は、自著の『睡餘事録』に詳しく書かれているが、裁決は「吉田家取り潰し・家禄召し上げ」であった。長州藩では、こういった宙ぶらりんの身分状態を「育」(はぐくみ)といって、親の許で目的も役目もなく生活する、いわゆる「浪人」状態となってしまった。
しかし、兵学師範として藩主に絶大な信頼を得ていたことが、特別なはからいとなって「十年間諸国遊歴」という願いを出すことで、吉田家再興の含みを持った処遇となった。 嘉永六年一月に再度の江戸修業を目指して、途中畿内や大和、伊勢等の見識ある学者との意見交流を重ねながら、五月末に江戸に到着する。そして、十日が経過した頃に、日本を揺るがす大問題が起きる。

嘉永六年六月三日夕刻、米国の軍艦四隻を率いてペリーが浦賀に来航し、日本に開国を迫るのである。対応策に頭を悩ます松陰の手元に、長州から妹の「壽」が儒者の「小田村伊之助」に嫁ぐ吉報が届く。嘉永六年八月十五日の江戸から、長州の兄・梅太郎に宛てた書簡が吉田松陰全集に収載されている。『壽妹儀小田村氏へ嫁せられ候由、先々珍喜此の事御同慶仕り候。彼の三兄弟皆読書人、此の一事にても弟が喜ぶ所なり』(全集7-183)。と小田村との婚姻を喜んでいることを兄に伝えている。
楫取素彦24.4.24

この「小田村伊之助」こそ、後に「楫取素彦」と名乗る人物である。これは、藩主からの改名指示に基づいたもので、幕末も押し詰まった慶應年間、小田村の命を狙う藩内抗争から身を守るためのことであった。事実、元治元年(1864)秋に、禁門の変の是非をめぐる意見対立から、反対の立場にある藩士達から「野山獄」に投獄され、伊之助の兄は斬首され、伊之助も覚悟をした『遺書』を壽に遺しているのである。斬首の実行を間近に控えた時、「高杉晋作」の挙兵によって間一髪で一命をとりとめる際どい瞬間を潜り抜けたのであった。
以後、七卿落ちで大宰府にいた三条実美以下の尊攘派公卿を藩命で訪問し、そこで坂本龍馬と出会い、龍馬の持論であった「薩長同盟」構想を、長州藩に持ち帰り、藩論を一転させて、犬猿の仲であった薩摩藩との攻守同盟の仲立ち役を演ずるのである。

この地味な役回りは、おそらく楫取素彦の人間性が成就させたものと評価されてよい。戊辰戦争に勝利した長州は、大半の人物が中央政府に入って活躍するが、一人「楫取素彦」は、自らお役目完了とばかりに、現在の長門市に隠棲するが、新日本はそれを許す暇がない。いくばくもなくして、中央政府に呼び出されてしまう。
明治四年に断行された『廃藩置県』によって新たに設置された「足柄縣」の権令として出仕し、さらに「熊谷県」の県令を命ぜられる。明治九年群馬県(第二次)の発足とともに、「群馬県令」に就任。

明治十七年までの八年間、新生群馬県の為に尽くすことになる。県庁をそれまでの高崎から前橋に移転させる。これは中央政府を説得するという難問、さらに高崎の人民を納得させなければならない難事業であった.
そうしてまた「殖産興業」の見地から、生糸産業を根拠として産業育成策として実現させたのであった。
元来が「儒者」としての見識を持していた楫取素彦ならではの手腕としてよいだろう。
同時に教育への布石を行い、明治初期にあって西の岡山県、東の群馬県を教育の見本とさせて就学率の高水準を実現させた。明治政府の国策と一体化した県政を行ったという事である。
このほか、全国に先駆けて「廃娼運動」を起して実現させたのも特筆に値する実績の一つである。
生糸


また、見識をすめす逸話として「生糸の直輸」への援助がある。横浜の外人の商社を通さずに、米国へ直接群馬県の製品を輸出しようとする構想を抱いていた「水沼製糸所」の「星野長太郎」は、実弟で、当時英語を学んでいた「新井領一郎」をニューヨークへ派遣し、直接販売の交渉にあたらせるべく、楫取県令に相談。これを快諾した楫取は、当時の莫大な渡航費用、商談が成立するまでの現地滞在費等の資金援助をおこない、結果的に成功させる。渡米した新井領一郎は、若干20歳の若さであったが、現地での精力的な努力により、遂に成功させる。後にかれは、米国貿易のビジネスマンの魁として、後に続く日本人の為にも大いに貢献するのである。この新井領一郎は、くしくも私が生まれ育った群馬県勢多郡黒保根村の先達である。何という奇縁というべきか。新井領一郎は、一代で財をなし、63年間米国に在住。その間、日米を往復すること70回だそうである。功成り名を遂げて昭和14年、84歳で亡くなったが、この人生への努力に対し、ニューヨークの関係者は黙祷をささげて哀悼の意をささげたそうである。これも、楫取県令の力強い後援ありての快挙であった。以て瞑すべしかとの感慨が胸をよぎる。

25.7.2『群馬県庁』 



今、群馬県庁の裏に「楫取素彦の顕彰碑」が建っている。これらの功績としての顕彰碑である。
明治十七年、任期を全うして東京に戻る時、県民はこぞって去りゆく名県令を惜しんで、数千名もの人たちが列をなして、辞任を惜しんだという。


吉田松陰は、安政六年五月に幕府からの召喚命令を受けて「萩」を出発するにあたって、小田村に松下村塾の後事を託した。その時の言葉が有名な「至誠にして動かざる者未だかつて有らざるなり」という『孟子』のことばであった。吉田松陰精神を継ぐ人たちは、高杉晋作、久坂玄瑞、品川彌二郎、伊藤博文等々枚挙に遑ないほどであるが、地味ながら楫取素彦もその一人であることは誰も異論を唱えられないだろう。
群馬県令の後は、元老院議官、男爵、貴族院議員、そして防府での教育活動と多くの実績を挙げた。此の事から、出身地の萩、県令の任地での群馬県、晩年の教育活動での没地に平成二十四年、没後百年の節目の年に、「顕彰会」が結成されたのであった。

こうしたことを、踏まえつつ平成二十五年九月六日に「前橋市」で、群馬県の教育委員会と前橋市の教育委員会の後援のもとに、私は『楫取素彦と吉田松陰』と題して講演を行うことになったのである。
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