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「楫取素彦」人物伝①
【2013/07/06 01:03】 エッセイ
『楫取素彦顕彰会設立一周年記念事業』

平成24年は、初代群馬県令として幾多の業績を残し、群馬県の発展の礎を築いてくれた「楫取素彦」の没後100年の節目であった。
山口県萩市と防府市、そして群馬県(前橋市)と三ケ所に奇しくも顕彰彰会が設立された。
これは、在世中や任期中に顕著な実績をあげ、なおかつ後世の方々から顕彰に値する者であるとの、多くの方々の共通認識があってのことと思われる。こうしたことから「名県令」であったとされる「楫取素彦」に感謝を籠めた記事を何度かに亙って連載記事としたいと思う。

この楫取素彦の生家は松島家である。それが松島家の二男としての生誕という事情から、幾多の波瀾に満ちた人生航路を歩むことになる。
因みに、吉田松陰全集に記述されている「小田村伊之助」の項から引用して、概略の人生を紹介して第一回の紹介記事とすることにする。
少し長いが、全文を掲載してみる。昭和49年4月に「大和書房」から刊行された吉田松陰集、「第十巻」に「関係人物略傅」が編集されている。通称、「大衆版」の「關傅」と松陰研究者では略称されている人物略伝の解説である。菊版サイズで2ページにわたる。
小田村伊之助


『小田村伊之助』
名は哲、諱は希哲(ひさよし)、字は士毅、通称を久米次郎又は内藏次郎といい、小田村の養嗣となるに及び伊之助と名を改め、後に文助・素太郎といい、慶應三年九月楫取素彦(かとりもとひこ)と改む。號は耕堂・彝堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂等あり。文政十二年三月十五日萩魚棚沖町藩醫松島瑞蟠の次男として生まる。松島瑞益(剛蔵)の弟にして、小倉健作の兄なり。小田村家の養子となれるは天保十一年にして、その家は世々儒官なり。
弘化元年明倫館に入り、同四年十九歳にして司典助役兼助講たり。二十二歳大番役として江戸藩邸に勤め、安積良齋・佐藤一齋に教を受く。松陰は嘉永四年江戸に遊学して小田村と相識るに至り、後同六年松陰の妹壽(ひさ)が小田村に嫁ぐや、両人の関係更に密接となり、爾後公私ともに骨肉も及ばざるものあるに至れり。松陰嘗て小田村に感謝して曰く「吾れ曾て三たび罪を獲、君皆其の間に周旋す、吾れ再び野山獄に繋がるるに及びて君力を致す最も多し・・・・・・」と。
概ねこの類なり。安政二年四月小田村は明倫館舎長書記兼講師見習となりて令名あり。翌三年二月相模出衛を命ぜられ、同四年四月帰国、明倫館都講役兼助講となる。この頃より松陰の教育事業は漸く盛んになり、翌五年十一月松下塾閉鎖まで、小田村は直接關係なきも、松陰の信頼篤く、始めはその計画に参与し、又時々過訪して間接の援助を與へ塾生とも相識るに至る。而して松陰の激論を拘制しつつ相敬愛せるところは二人の交の特色なり。
吉田松陰25.11.09


松陰投獄後塾生指導の任に膺(あた)り、国事逼るやまた塾政を顧みること能はざりしも、明治以後杉民治と共に一門の中心となりて松陰の顕彰に尽力せしこと多大なり。萬延元年山口講習堂及び三田尻越氏塾に教え、文久元年以後専ら藩主に扈従して江戸・大坂・防長の間を東奔西走す。元治元年十二月、藩の恭順派のために野山獄に投ぜられ、翌慶應元年二月出獄。五月には藩命により当時大宰府滞在中の五卿を訪ひ、四境戦争の時は、廣島へ出張の幕軍総督への正使宍戸備後介(山県半蔵)に副使たり。慶應三年冬長藩兵上京の命を受くるや緒隊参謀として出征し、公卿諸藩の間に周旋し、遂に伏鳥羽見の戰に於て江戸幕府の死命を制するに至らしめたり。維新後一旦帰国して自藩に出仕、五年出でて足柄縣参事となり、累進して群馬縣令となり、その後元老院議官・高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等歴任し、又貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられしことあり。これより先明治二十年男爵を授けらる。大正元年八月十四日歿す。享年八十四。特旨を以て正二位勲一等に敍せらる。
松陰の妹 壽


妻壽(ひさ)よく家を守り、二児を教養して夫をして後顧の憂なからしめ、夫の入獄時または四境戦争時の如きは烈婦として令名を馳せたり。惜しいかな晩年健康勝れず、明治十四年遂に夫に先立ちて歿す、年四十三。後妹美和入りて嫁す。(以下全集関連記事等)。

「筆者註」
この楫取壽(松陰の妹)は、浄土真宗への信仰心が篤く、夫が「難地」の統治に赴任するにあたり、宗教の必要性(浄土真宗)を説き、その願いは現在の「前橋市大手町」に「清光寺」が今に残る。吉田松陰の「野山獄中から妹に宛てた書簡」が全集に収載されている。これを読むと、楫取の妻「壽」が、「杉家」の家風をよく継いでいることが解り、感動すら覚えるのである。筆者は、昨年九月、この清光寺を訪問して、壽の願いに想いを馳せたものである。地下の松陰も喜んでいるに違いないと胸が熱くなった。
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