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『楫取素彦人物伝』④
【2013/07/09 15:24】 エッセイ
『地方官として頭角を現す:楫取素彦』

吉田松陰研究家の「泰斗」海原徹先生は、大著『松下村塾の明治維新』で楫取素彦を相当に詳しく解説している。(207頁)「海原先生」の松陰関連の著作は、その水準の高さはもとより歴代研究者の中でも最も多くの研究書を刊行している。因みに、我が家の書斎にも沢山ある。「①松下村塾と松下村塾」、「②松下村塾の人びと」、「③松下村塾の明治維新」、「④江戸の旅人吉田松陰」は、通称「四点セット」と呼ばれて、いずれもミネルヴァ書房から刊行されている。思うに、同出版社から出された『日本評伝選シリーズ』の第一回配本を合わせて精読すると、吉田松陰と松下村塾については、「精通者」と云えるだけの内容を備えている。この日本評伝選の『吉田松陰』は頗る好評で、一定の吉田松陰についての知識を持つ者なら、忽ち魅了される良書であると断言できる。入門書としては「質が高い:水準が高い」ので、心して精読することが要求される。繰り返して読むことをオススメしたい
吉田松陰「海原徹著」



さて、本論に戻ろう。楫取素彦=文政十二年三月十五日、藩医松島瑞蟠の次男として萩魚棚沖町にて生誕。兄に松嶋剛蔵、弟に小倉健作がいる。江戸時代の習いとして、素彦、健作が生家の名字と異なるのは他家へ養子となったためである。三者ともに秀才の誉れあり、後に、江戸遊学中の松陰は、兄からの書簡で、妹「壽」が小田村(楫取)へ嫁いだ知らせを受け非常に喜んでいる。松陰全集第七巻・兄杉梅太郎宛て(嘉永六年八月十五日付)に『壽妹儀小田村氏へ嫁せられ候由、先々珍喜此の事御同慶仕り候。彼の三兄弟皆読書人、この一事にても弟が喜ぶ所なり』。と書かれている。
伊之助は天保十一年、大組(毛利藩中級藩士)儒者小田村家の養子となる。十九歳で家督を継ぎ、後、大番役として江戸藩邸勤務、当代一流と云われた佐藤一齋、安積艮齋に学ぶ。儒者としての修業も順調である。嘉永四年、松陰の江戸遊学中に知り合い、二年後に妹壽との婚姻で義兄弟の関係となる。ずっと後だが明治14年壽が病死すると、県令の職務に多忙で困難を極めていたことを、松陰の母「たき」が知って、久坂玄瑞に嫁いでいた(禁門の変で戦死)妹の「文」を再婚するよう勧め、再三説得の後実現。この意味で吉田家、杉家、小田村家は濃密な縁戚関係となる。
安政三年頃は、野山獄から免獄になった松陰を再三訪ねており、両者(両家)の関係も良好であった。前回で「野山再獄」の記事にも書いたが、「明倫館の多忙な職務を削減して、村塾の継続者たらん」と周旋した。松陰は、江戸送りの後は後事を小田村に託そうと考えていた。

小田村伊之助


事実、藩の儒者から「藩官僚」として志士的活動へと変容していくのは、松陰亡きあとである。文久、元治、慶應年間は藩の存亡を賭けた国事行為に多忙をきわめ、戊辰戦争後は「徵士参与」として召し出される。官制改革のため間もなく辞職、以後は明治五年の足柄縣出仕までは郷里に戻って職務をこなす。此の間だが、明治二年有名な「諸隊反乱」が起きている。新政府の人材要請は再度小田村を引き出そうとするが、藩主敬親の信任が厚く、明治四年三月に敬親が死去するまで、実に長き期間を側近として近侍する。此の間十三年に及ぶ。政府からも諸隊からも人望があったというから、人柄となりは篤実であったことが窺われる。
明治9年第二次群馬県令となるのであるが、ここでの8年間の実績は、後々まで名県令と云われるにふさわしい。松陰とは違った意味での教育者の側面をもつが、「難治の上州」には、こうした中央政府にも多くの人脈をもつ人物が必要だったことは間違いない。
群馬県図

新政府の近代化路線は、一方では反対者をも生み出すが、国策であった「殖産興業政策」にそって、かねてから盛んな生糸産業の育成拡大に力をそそぐ。同時に国家百年の計たる教育の普及は全国的にも最高水準の就学率を達成させた。そして「修身説約」等の教科書編纂も彼の教育者的性格と手腕であったと見なければならない。就任前「管民固陋旧習に安んじ頑然動かず」と云われた地域の風土改革には、夫人の壽の存在も見逃せない。夫妻の願いで郷里山口からの「小野島行薫」を招聘して「酬恩社教会」のもとに宗教をも活用したのであった。前橋市大手町の「清光寺」の建立は、妻壽の願いになる。「県立中学」、「医学校」、「師範学校」の設立も楫取の在任中で、教育環境整備も特筆ものである。これと関連するが明治15年3月の県会が「娼妓廃絶の建議」を可決させ、英国の廢娼令に先んじた功績もある。ちなみに群馬県議会の発足は明治12年5月である。
それまで高崎の「安国寺」に在った県庁(庁舎)を前橋に移動させたのも楫取の業績のひとつである。製糸業や生糸貿易の産業推進、県最大の城下町であった「前橋藩・前橋城」が庁舎に相応しいという現実的な背景もあったろうが、移転反対運動を推しきって実現したのも将来の県政発展を洞察したうえでの判断だったであろう。事実、県政とともに、生糸産業に大きく支えられて前橋は発展したのであった。この養蚕と製糸業の育成、奨励策が実を結んだのであって、そこには技術の改良や機械化の推進もその一端であったと考えられるのである。
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