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『楫取家』文書
【2013/09/01 10:41】 エッセイ
『楫取家文書』のこと

日本史籍協會叢書の55番と56番が「楫取家文書」である。この奥付を見ると「昭和6年」発行となっている。それを昭和45年に覆刻した。編者が「日本史籍協會」で、発行者が財団法人東京大學出版會となっている。そのため旧漢字が相当に使用されていて、漢文も相当に収載されているので、殆ど古文書を読むような感覚になる。この2巻の内容は楫取素彦が「小田村伊之助」と称した時期に該当する。小田村から「楫取素彦」に藩命で改名したのが慶應3年という、幕末の最終段階だから、実質的には「小田村四郎」文書といってさしつかえない。

この56番の巻末に、解題が収載されている。著者は藤井貞文とある。このパート2に、経歴が記載されているので、幕末期の楫取を勉強するには格好の解説なので全文を転記して見る。

小田村伊之助


楫取素彦は山口藩医松島瑞蟠の次子として文政十二年三月十五日萩城下の魚棚沖町に生まれた。奇しくも後に幕府との広島応接に死生を共にした宍戸璣(後に山縣太華の養子・半藏)と同日の生れである。兄の剛蔵は丙辰丸の艦長として万延元年八月木戸孝允と共に水戸藩士と成破盟約を結んだ事で知られた志士、弟の小倉健作(後に松田謙三)も亦志士として活躍した。

名は哲、諱は希哲、字は士毅、通称を久米次郎、或は内蔵次郎と言った。天保十一年六月十五日同藩の儒官小田村吉平の養嗣と為り、通称伊之助と改め、後に文助、更に素太郎と改めたが、慶應三年九月二十四日楫取素彦と改名した。耕堂・彝堂・晩稼・棋山・不如帰彝堂等の号を用いた。

弘化元年九月明倫館に入学し、同四年十月司典助役兼助講に挙げられ、儒家として立ち、嘉永二年二月には明倫館が再興落成講師見習役となった。翌三年三月大番役として江戸藩邸に袛役(しえき)し、安積良斎・佐藤一斎に入門した。翌四年四月同藩士吉田松陰が江戸に遊学するに及び、始めてこれと相識り、同六年には松陰の妹寿が彼に嫁するや、愈々両者の親密は度を加えた。安政二年四月江戸より帰って再び明倫館に入り、舎長書記兼講師見習となり、翌三年二月相模国の防衛に赴き、翌四年帰藩して明倫館都講役兼助講となった。同六年十二月手廻組に加えられ、側儒役となり、翌万延元年二月山口講習堂文学用掛を命ぜられた。

明倫館


以上の期間は未だ時勢も十分に動かず、彼が志士として活動するには間があり、専ら儒家として藩務に奉仕したのである。彼の志士としての面目は文久年間に入ってからであり、もはや単なる儒者で居る事が出来なかった。即ち文久元年九月、彼は藩主毛利敬親の参府に随って江戸に出でたが、当時、同藩は航海遠略説を携げて公武の間に周旋しようと企てた。然るに彼の義弟久坂玄瑞等の尊攘志士は、これを迂遠の策と為して大いに非議し、翌二年正月には坂下門外の変、同四月には寺田屋事変が起った。遂に同藩はその主唱者たる長井雅樂を退けて破約攘夷の藩議を決してこれを奏請した。

同七月彼は敬親に従って入京し、活躍するところがあった。同年十月彼は内用を帯びて京都から岩国・長府の二藩に使いし、十二月京都に帰って復命し、翌三年敬親に扈従して京都から帰藩した。四月更に藩命を以て岩国に赴き、尋いで上京して尊攘運動の渦中に投じた。八月大和行幸を仰出されて藩主を召されたので、直に早打ちを以てこの朝命を藩地に齎した。翌九月側儒役より奏者格に転じ、内用掛となったのは、益々その才器が重用される事となったのである。

翌元治元年になって政局は一段と活発となる。就中、山口藩並に尊攘志士の京都回復の気勢は熾烈となった。正月藩命を以て長崎に赴き、三月に抵って一旦帰藩したが、その間に京都に於ては禁門の変が起った。九月十七日藩命に依て小田村素太郎と改名し、十一月二日禁門の変に坐して親類預けとなり、十二月十九日野山獄に入った。

野山獄


翌慶應元年二月野山獄を出で、五月藩命を帯びて大宰府の五卿に使したが、同地に於て高知藩士坂本竜馬等と邂逅して、薩長聯合の端緒を作った。尋いで小姓役筆頭通仕成と為り、徳山・岡山・広島の諸藩に使したのである。翌二年となりて山口藩・幕府の関係は一つの山場に到達した。

彼は宍戸璣と共に専らその折衝に腐心したが、遂に幕府の為に拘禁せられ、その間に両軍の激戦が開始せられた。十一月塩間鉄造と変名して大宰府に役し、翌十二月他藩応接掛を命ぜられて直目付役となり、豊前の占領地の鎮撫に当った。翌三年二月小倉に赴き、六月世子元徳の書物掛を命ぜられ、九月遊撃隊副総督となって高森に出張し、尋いで家老毛利内匠の大坂行に随行を命ぜられ、奥番頭に転じ、楫取素彦と改名せしめられた。十一月諸隊参謀として討幕軍を率いて上京した。

かくて明治元年の元旦を京都に於て迎えた。鳥羽伏見の戦いには皇居の守衛に任じ、正月十日徴士参与となり、同二十日制度事務局判事を命ぜられたが、二月二十日にこれを罷めて翌三月二十四日帰国した。

一体明治の人には一つの気概があった。彼の義兄吉田松陰は、事が成ればその功を王室に帰し、事が敗れればその罪を一身に着ると言った。彼も亦この気概を持ち、即ち王政復古の光を見れば既に我が事成れりとした訳であり、敢て明治の政権の座に就く事を好まなかった。維新後は出仕して山口藩権大参事・熊谷県令・群馬県令等の地方官に甘んじ、而も屢々致仕して山野に隠れる事を望んだ。器用の士は許されず、明治十七年七月三十日元老院議官に任じ、同二十年五月二十四日男爵を授けられた。同二十三年七月十六日衆望を以て貴族院議員に当選し、三十年十月一日貞宮御養育主任を仰付けられ、翌三十一年五月十二日宮中顧問官となり、大正元年八月十四日八十四歳を以て薨じた。翌日、特旨を以て正二位・勲一等に敍せられ、防府桑山に埋葬した。静なる晩年であった。

『楫取家文書』全二冊は、前述の如く楫取素彦が幕末維新に際して活躍した当時の書翰や諸記録を輯録した。周知の如く山口藩は尊攘運動の実行者として早く公卿・諸侯の推重を得たが、文久三年八月攘夷政変の為に挫折し、翌元治元年七月の京都回復運動に失敗して朝敵の汚名を負い、幕府軍の追討を受ける事になり、非常なる苦境に陥った。併し一藩の士気は少しも衰えず、益々軒昂であって専ら藩地に在って再挙の方寸を立て、又、公卿・諸侯の中にも同情を寄せる者が多く、密に使者を往復させた。即ち山口藩は声望と才識とを以て聞える楫取素彦を起用して屢々その折衝に当らしめたのである。
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