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「吉田松陰」と「水戸藩(徳川斉昭)」のこと
【2013/09/17 21:55】 エッセイ
水戸藩主「徳川斉昭」と藩内事情(前半)

嘉永3年(1850)、萩藩山鹿流の「兵学師範」として独立した吉田松陰は、藩外に遊学を求めた。最初に松陰が求めた地は平戸、長崎であった。8月末から年末までの4か月に及ぶ「遊学」であった。平戸藩に山鹿素行の後裔がおり、そこで修業すること。そして一番の狙いは、同藩仕置家老の「葉山佐内」の下での「軍学修業」(吉田松陰全集第10巻:平戸遊学関係文書)であった。この修業は松陰の生涯にとって誠に実りあるものとなった。葉山佐内は「陽明学者」であり、また水戸藩儒者の「会澤正志斎」の著述になる『新論』を読む機会に恵まれた。

江戸期における「長崎」は、唯一海外に開かれた地であり、そこで得る「海外情報」は、毛利藩の防衛を任務とする「兵学者」にとって有益な情報が得られることが期待された。
藩の出先機関(聞役:主として情報収集)を長崎においたのも、藩としての重要な戦略上の意味を持っていた。松陰の生涯に大きな影響を与えたと云われる「陽明学」と「水戸学」は松陰研究にとっては必須の課題である。この翌年、江戸に遊学した松陰は、脱藩して東北遊学に旅立つ。そしておよそ1か月間水戸に滞在して、会澤正志斎から「水戸学」・「日本の成り立ち」を学んだのであった。

吉田松陰



このことは松陰全集第九巻『東北遊日記』に詳しく書かれている。脱藩旅行後に帰国命令を受け、萩での「待罪期間」を送った『睡餘事録』(全集第九巻)に「水戸学」を学んだ衝撃的な反省と回想的な記事が書かれている。そこで、今回は水戸藩について書こうと思う。

幕末の藩主には個性的人物が多いが、その中でも水戸藩主だった徳川斉昭は異色の殿様である。「弘道館」の創設や「偕楽園」を作って、文武奨励策を進めたことで有名ではあるが、斉昭は果して「名君」であったか否か。この判断は意外に難しい。実は彼は生涯(60年)で三度の処罰を蒙っている。これだけでも異色と云えるが、最後は「永蟄居」のまま生涯を閉じるというものであった。まるで、最後の政敵であった時の「大老・井伊直弼」と同年に死去しているから、猶更ドラマチックなイメージが付いて回るのかも知れない。

「徳川御三家」の一つである水戸藩第7代藩主冶紀の第3子として、寛政12年(1800)江戸小石川藩邸にて生誕。俗に300諸侯といわれる江戸期にあって、唯一「参勤交代」を義務付けられなかった水戸藩である。これを「定府」という。つまり、参勤交代の本質は「制度としての人質」と「大名を富裕化」させない為のであった。正妻は常に江戸藩邸に住まわせることを義務付け、各年に「お国入り」する領地には側室がいた。側室は無論複数であるから、領国と江戸藩邸ともにおかれた。一夫一婦制が当たり前の生活をしている現代人からは奇異に思われるが、当時に在っては当たり前のことであった。

端的な例を挙げて見よう。薩摩藩をみるとこのことが解かり易い。島津斉彬は正室を母に持ったから、江戸藩邸で生まれた。襲封に當たり「お由羅騒動」という困難を経験した斉彬は、世継ぎを側室の子である弟久光の子息・忠義に指名した。自身の世子誕生のいきさつを知る斉彬の賢明の策であった。久光は斉彬の異母弟になるが、彼は領国の薩摩で生まれている。正室を母に持たない証左で、彼の母は側室の「お由羅」である。不仲で有名な西郷隆盛が、江戸の生まれでない久光を田舎者とさげすんだのは有名な話である。

さて、斉昭に戻る。第8代藩主の斉脩には世子がなかったので、弟の斉昭と御三卿の清水家・恒之允(実は11代将軍の家斉の子)とが9代目の候補にあがった。ここから斉昭の擁立ドラマが展開される。後に名を成す藤田東湖をはじめとする「改革派」の推す斉昭と、「門閥保守派」の推す恒之允とが、互いに激しい運動を展開するが、結局斉脩の遺言にて斉昭が第9代の藩主になる。後に、15代将軍になる徳川慶喜は斉昭の7男である。

波乱含みで藩主の座に就いたのが文政12年(1829)であり、弘化元年(1844)までの15年間、異色の藩主として、水戸藩の「天保の改革」を実施する。結果からすると、「独断専行」の「やりすぎ」によって幕府から、致仕謹慎を受けてしまう。処罰である。11代将軍の家斉が死去して、水野忠邦が「天保の改革」を始めるのが天保12年。全国レベルの行き詰まった幕藩体制の再建をめざしていたのが天保の改革で、此の他、長州藩、薩摩藩、佐賀藩らの西南雄藩らも同様であった。

徳川斉昭24.10.5


水戸藩は「定府」であるから、領国への「お国入り」(就藩)は、幕府に「願い書」を出して将軍から許可を得なければならない。(先代は12年在任で一度もなし)それは、一刻も早く実現したかったが「天保4年」に第1回が実現した。そこで『告志篇』を提示して家臣に率直な意見上書を求めたのであった。これは改革の意欲に燃える斉昭が、意に反して遅々として進捗しないことから、改革促進を求めたのであった。そうして、斉昭は幾つかの改革の大ナタを振るう。それは①「定府」職員の廃止。②「追鳥狩」という名の軍事演習(江戸と水戸・千束原、堀原、仙波原)③助川の海防城(築城禁止のはず)構築・反射炉・大砲鋳造と梵鐘供出命令⑤検地(要幕府許可)と臣下への朱印状手渡し(将軍の役割)⑥水戸東照宮を唯一神道(神仏分離)に改めたことなどであった。軍事演習、領内築城(海防の大義)、朱印状公布、東照宮の神道化などは制度の破壊につながり、斉昭の改革は時に反幕府行動と受け取られかねないことで、幕府が快く思わず、藩内の門閥保守派につけ入る隙を与えてしまった。

まして、「改革の先輩」として、幕府に建議することは越権行為となる。同時に水野忠邦との関係も微妙になった。反面、江戸城で将軍家慶から改革の成功を称えられる「御意」を伝達されたのであったが、天保12年に幕府から「在国延長命令」という、定府にそぐわぬ命令が出た。此の時点で、譴責の予感を持たなかったのだろうか。果せるかな弘化元年春、老中連署による召喚命令が出たのであった。江戸に到着した斉昭を待っていたのは「隠居、蟄居謹慎」という厳しい処罰であった。知らぬは「斉昭ばかり」で、実は御三家に特有の「付家老」である中山が召喚命令の出る前に、老中の阿部正弘から数箇条に及ぶ詰問を受けていた。付家老の「弁明書」提出まえに召喚命令が出たのであった。「領国での延長」についての斉昭は不吉な予感を持たなかったのであろうか。

「領国での改革」へ「のめり込みすぎた」ことを、多くの有能なブレーン達は諌言しなかったのであろうか。斉昭のブレーンとは「藤田東湖」を筆頭に、「後期水戸学」を構成した「改革派」の人達であった。彼らは諌言どころか、「共犯」と見做されて処罰を受けてしまうのであった。「後期水戸学」とは、藤田東湖の父・幽谷に始まる学風の系譜である。

弘道館正門


それは、寛政年間に書かれた幽谷の『正名論』をはじめとして、会澤正志斎、豊田天功、らの儒者にして政治の実務をも担当する俊才たちであった。『新論』(会澤)と『弘道館記述義』(東湖)は後期水戸学の代表的な著作であり、これらが幕末の尊王攘夷運動に影響を及ぼしていくことになる。

水戸藩成立は江戸初期であるが、実は徳川家康の没後の「神号」を巡って、家康のブレーンであった二人に争いがあった。僧天海は神仏習合の立場で「権現」を主張、一方の金地院崇伝は神道の立場から「明神」を主張したのであった。「権現」とは仏が神の姿となって現れることで、この論争は天海の主張が勝って、家康は「東照大権現」となった。各地に存在する「東照宮」は「権現様」なのである。当然水戸にも東照宮はあるが、これを唯一神道となし、領内の神仏分離策を図ったのは御三家の立場として理解できる。また水戸学は尊王の立場であるからして、天皇=神とのことは明治になって大義名分を得てくるので、それなりに理解は出来る。しかし、水戸藩領内の寺院に大砲鋳造で梵鐘を供出せよとの命令や、怪しげな寺院をつぶしたことが、藩内抗争との絡みから、幕府への内通となって、「やむなく」斉昭処罰となったものと思われる。この内通は、寺院―寺社奉行―老中へと斉昭憎し!の情報となり、門閥保守派(付家老の中山や結城朝道等)が主導したのでなかろうか。

幕末の水戸藩は「藩内抗争」が、一つは「藤田幽谷と立原翠軒」という学者間の対立。もう一つは「門閥保守派と改革派」の抗争があったが、斉昭の改革に非協力的であったのが、門閥保守派であった。これは、上士グループと下士グループと言いかえてもよく、藤田幽谷が立身出世を遂げたことから、藤田東湖、会澤正志斎も出自は下士であった。この抗争は根深く、斉昭が『告志篇』で促した「上書」を、天保3年、「豊田天功」が『中興新書』でこれに応えて「水戸の問題発生」は全て両派の対立に根差しており、水戸家の危機を指摘したのであった。門閥出身者が執政・参政の主要な地位に就くのが当たり前になって居るのを、人材抜擢にするよう提案しているのも、藩内抗争の激しさを物語っている。
内政に問題を孕みながら、隠居となった斉昭だが、雪冤運動も激しかったのであった。
後半は、ペリー来航を期に「海防参与」となり、幕政参加するも政敵・井伊大老との確執、大奥の不人気を軸に書いて見たい。
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