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「吉田松陰」と「水戸藩(徳川斉昭)」のこと(後半)
【2013/09/19 18:06】 エッセイ
「水戸藩(徳川斉昭)」のこと(後半)

前回、斉昭の致仕、謹慎(弘化元年:1844)までを書いた。(この突然の出来事を水戸藩では「甲辰の国難」と呼称)。この謹慎と隠居によって、斉昭の長子である慶篤が第10代の藩主(襲封時13歳:連枝後見条件附き)となった。こうして、徳川斉昭は「前藩主」として以後「ご隠居」と呼ばれるようになる。
「ご隠居ついで」にいうと水戸家第2代藩主の「徳川光圀」は、もうひとつ「黄門様」とよばれ、むしろこちらの方が人口に膾炙している。ただし、黄門は「中納言」の唐風の呼称であるので中納言であればだれでも黄門様と呼んで差支えない。ただ、「ご隠居」という意味合いからすると現役の藩主には一般的には違和感があるだろう。謹慎命令の出た同年11月謹慎が赦免され実質の謹慎命令は半年間であった。当然、御三家の「水戸藩主」の地位は回復しなかったのである。したがって「ご隠居」ということになる。

尊攘(弘道館)


不思議なことに、「謹慎」を命じた幕府の筆頭老中である「阿部正弘」とは翌年7月から書簡を交わしているのである。これをどのように考えればよいのであろうか。そうして弘化3年12月、藩主時代の側近中の側近であった「藤田東湖」も謹慎を解かれる。此の間、藩士たちが斉昭の雪冤運動や復権運動を行うが、失敗して逆に処罰を受けてしまう。嘉永元年(1848)、この中心にいた高橋多一郎(後、桜田門の変に参加)は蟄居、減禄という重い処分を受ける。これらから判断すると藩主としての斉昭は幕府にとって好ましくないことから、藩主の実権を奪うために強制引退を迫ったことがわかる。吉田松陰が東北遊学で水戸を訪問した時、本心は「藤田東湖」に会いたかったのであるが、当時は謹慎のみは解除になったが、「遠慮」の扱いであったため、他藩人とは遭わず、結局松陰は東湖とは面談が叶わなかった。それに代わって会澤正志斎の懇篤な待遇に恵まれたのであった。嘉永2年3月、斉昭は「藩政」への関与が許されている。藩主ではないが、「前藩主」として復権を果たしたということになる。このように丸5年にわたり、斉昭とその支持ブループの改革派は冷遇を余儀なくされた。斉昭復権と共に、「改革派」も再度活動を活発化させることになる。併し、最後に書くように、「水戸藩の内訌」は後々まで問題を残したまま明治を迎えることになる。嘉永6年(1853)「ペリー来航」で幕府の「海防参与」となるまで雌伏の時を過ごすが、この間の主だった動きは7男の慶喜が一橋家を継ぎ、5男の昭徳が鳥取藩池田家を継いでいること。そして藩内の「種痘」を実施し、また藩士に党派の争いをやめるよう説諭を行った等がある。そしていよいよ運命の「ペリー来航」となる。

ペリーの顔2012.02.08


ペリーは「ビッドル」の来航(弘化3年:1846)に学んで、開国の戦略を含めて、如何にしたら日本の鎖国を打破できるか研究を重ねて、満を持して来日したのであった。軍艦の「空砲」は打ったものの、大統領からは「武力」の行使は絶対に不可と命令されていたのである。だから、実弾は打たなかったものの、際どい外交手段であった。そして彼が用いた砲艦外交(脅し)に屈して、徳川幕府は久里浜で「大統領親書」を受け取らされる。いま、横須賀にその記念碑が建っている。撰文は「伊藤博文」である。さて、ペリーは翌年親書の返答を求めて再来日すると告げて、10日間で退去してしまうが、この「事件」以後幕府の衰退が始まり、斉昭も「故国の為に」尽くさざるを得なくなって、水戸藩製造の大砲を幕府に献上する。まず、幕府のとった対応策は「上書具申」を許すというこれまで政治や外交特権を放棄したことである。余談だが、これに応募した中での出色は「勝海舟」の「上書」であり、彼の大出世のきっかけとなる。これを評価したのは「大久保一翁」という進歩的な旗本であった。そして「大船建造禁止」を解除しこれまでの基本政策を改める。「攘夷主義者」の総本山的存在であった徳川斉昭も、「海防愚存」と題して上書した。翌年1月ペリーは再来日し、3月に「日米和親条約」の締結となって、2世紀余りの「鎖国」が終焉する。この時、下田と箱館の2港が開港の約束となった。吉田松陰が、下田から「密航を企てたのも」この条約締結直後のことであった。これも運命で、条約締結した以上「締結国」の法を尊重しなければならなかったことから、ペリーは松陰の米国視察を許可しなかった。このことは松陰全集の『回顧録』とその附録で『三月二十七日夜の記』に詳述されている。松陰はこれ以後、安政6年に処刑されるまで自由の身を奪われ続けることとなった。従って松陰は自首して「平滑の獄」、そして「江戸の伝馬牢2回」、萩の「野山獄2回」と合計5度の入獄をしたのであった。

ハリス


 安政3年和親条約に基づき、「ハリス」が軍艦で下田に上陸して、「柿崎村の玉泉寺」を「総領事館」とし、日本の国土に、最初に「星条旗」がひるがえすことになった。一方水戸藩では、斉昭は海防参与、側近の東湖は海防掛になり、改革派が復権を果たす。「門閥保守派」はこれを喜ばず、奥女中を通じて藩主の慶篤に改革派の排除を訴えたらしい。これを機に門閥派の代表格結城寅寿は幽閉される。かねてから斉昭の改革に非協力的だったことから、当然斉昭の覚えはよくなかった。「安政の大地震」によって、斉昭を支え続けた藤田東湖や戸田忠敞らの重鎮が江戸藩邸で圧死してしまう。喧嘩両成敗で翌年、結城も殺害される。幕政参与となった斉昭の激しい攘夷論は幕閣で受け入れられず、さすがの斉昭も嫌気がさしたか辞任してしまう。水戸では「弘道館本館」の落成もこの年であった。前年に那珂湊の反射炉が完成しているので、海防の大義は実践されたことになる。
一方、条約交渉はハリスとの間でまとまり、調印を待つのみとなった。しかし、反対者が多く、この混乱を乗り切るために「考案」されたのが「天皇の認可」すなわち勅許をえるという珍案であった。しかし、孝明天皇は勅許を出さず、差し戻しという体裁のよい不可のおうとうであった。勅許を得られなかった堀田正睦は責任問題となり罷免される。上京にあたって「黄金の山」のごとき、賄賂で簡単に買収できるとタカをくくっていた幕府はここで大きな目論見はずれに出会う。孝明天皇は「骨の隨からの攘夷主義者」であった。これを事前に調査しなかった幕府の大失態である。さらに悪いことに、実はこの条約は不平等条約であったが、「外交交渉経験」のなかった幕府は、「領事裁判権」や「治外法権」を知らなかったのであった。内治政治に明け暮れていた「ツケ」がこんなところに出てきたのであった。それは、明治時代のおよそ半世紀をかけて改正に苦労することとなった。

井伊直弼


堀田正睦にかわってあとを引き継いだのが、大老としての「井伊直弼」であった。元来大老は常置の職ではないが、非常の場合であるとして「溜間詰」の輿望を担って彦根藩主の井伊直弼が登場する。直弼は、意慾的に当時の二つの難問を矢継ぎ早に処理してしまう。①条約調印②14代将軍を紀州の家茂と決定である。この難題処理は、大老の独断専決であったため、反井伊派の諸侯や公卿(陪臣の志士も含む)を始め、轟轟たる非難が湧出する。まず、有力大名達が「不時登城」して大老を難詰するのであるが、直弼はこれを巧みにかわし、反対に処罰してしまう。将軍継嗣問題は「大奥」の支持を得ていた井伊が一橋派を押えて「血統」優先で紀州(南紀派)の勝利となる。問題の大奥は反斉昭だった、この大奥こそ将軍継嗣問題を複雑化し、政治的に混乱させたのであった。そこには、13代家定の生母である「本寿院」がおり、この人物が家定に反一橋・反斉昭の立場をとらせたのである。斉昭は自分の7男が候補だったため、実現すれば「将軍の父」として権力を行使できるだろうと忖度されて、常に「野心家」という疑惑の目で見られた。水戸学の系譜は当然「天皇」=朝廷関係からからの支持が予想されたし、さらに島津斉彬らの「幕末四賢侯」たちの強い推戴もあった。非常時の将軍は「将軍職に相応しい人物」が相応しいという考え方であったが、大老の独断で挫折し、反幕府の立場の代表人物として斉昭は処罰(水戸永蟄居)されてしまう。
徳川斉昭24.10.5


「内実」は井伊直弼と徳川斉昭は、元来は不仲であったことに加えて「政敵関係」にあったから、結果的に大老職の専断が下ったのであった。
これは、「日米修好通商条約」の無断勅許への反対も絡んで、水戸の朝廷工作の結果「戊午の密勅」が幕府より水戸藩に先に降下され、尚且つ、水戸優先の添え書きも「天皇の意志」として書かれていたことから、幕府の「大政委任」を侵されたとして大老の激怒となって「安政の大獄」を引き起こす。この権力者の怒りは反幕府思想の保持者を「一網打尽」に処罰・処断するという、日本政治史上の忌まわしい事件となった。

「この大獄」は、当然の如く、特に水戸藩への処罰が峻烈をきわめ、大きな禍根となって、翌年「桜田門の変」を引き起こす。この襲撃は、一人の薩摩人を除いて全員が「水戸の浪士」たちであったことからも、水戸藩の「怨念」による復讐劇とみてよいだろう。幕府権力の再興を目論んだ井伊直弼は、前代未聞の「白昼暗殺」の犠牲者となって、自らの意図したものと正反対の結果を招き、幕府権力の衰退を日本中に印象付ける、皮肉な現象を招くことになった。国元永蟄居中の徳川斉昭は井伊の死後5か月経って、水戸城中にて、「心臓病」で死去する。万延元年8月のことであった。

安政年間は幕末としては、前半期に属するが、5年(1858)の無断勅許と将軍継嗣問題、その是非を巡っての甲論乙駁の混乱を「権力」によって解決しようとした「恐怖政治」は一つのピークをなし、幕末政治の曲がり角となった。そして翌年(1859)、諸侯、公卿、志士を大量に処罰した。とりわけ「有能な志士」と評価の高い吉田松陰と橋本左内を斬刑に処してしまったことは、藤田東湖の事故死とともに惜しまれる。

吉田松陰とその門下25.5.6


吉田松陰の場合「松下村塾」で多くの俊才を育成し、なおかつ高杉晋作に「死して不朽の見込みあらば、何時でも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」と教え、「師」自らが手本となって死んで見せたことは、彼の名を不朽にしたのである。

前半期の政治の「両巨頭」で、政敵関係にあった徳川斉昭と井伊直弼は、同年に生涯を非運のうちに閉じるが、彦根藩も幕府から処罰を受けて、石高減となる。水戸藩の場合は、「藩内抗争」に明け暮れ、幕末のオピニオンリーダーでありながら、人材の払底を招いたことで、明治新政府を構成する主要な藩の一つとならなかった。併し、「明治天皇制国家」の創出原理となった思想は、違った政治の場で生きることとなった。「薩長土肥」に水戸藩が加われず、明治藩閥政治が西南雄藩に独占されてしまったことを含めて、惜しみても余りあると考えているがどうであろうか。
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