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「吉田松陰伝」のこと
【2010/08/08 17:09】 エッセイ
中公新書に「吉田松陰」(田中彰著 2001年)がある。この書はサブタイトルがついていて、「変転する人物像」とある。元々は中央公論社「日本の名著・吉田松陰」の解説に書いたものを加筆訂正したものだが、この本は松陰の勉強をするものにとっては、まず最初に読むべきものである。そして明治24年8月に、水戸藩士「野口勝一・富岡政信共編」(野史台)によって編集された『吉田松陰伝』が最初の伝記と紹介されている。なお、同年12月に安藤紀一氏(定本・吉田松陰編集委員を務めた)が『吉田松陰先生略伝』を刊行していると言うが、未見と記述。明治維新後、松下村塾出身者が顕官になったが、松陰伝は書かれなかった。

伊藤博文
▲△写真をクリックすると画像が拡大します


松陰死後50年の明治41年、『日本及び日本人・臨時増刊号』第四百九十五号として『松陰號』が刊行。その29頁に「吉田松陰先生の真髄」として門下生であった「野村靖」(旧名・和作:村塾四天王、入江杉蔵の弟)が一文を寄せている。それによると、かつて名文家といわれた土屋蕭海(しょうかい)が松陰の伝記を書きかけていたのを高杉晋作が見て「何だ!こんなものと言って引裂き捨てた」ことがあったという。それ以来、松陰伝は書かれなかったようである。

さて、この『吉田松陰伝』は上記のようなわけで待望久しかったのであろう。題字は元藩主の毛利元徳が書き、伊藤博文・山県有朋・山田顕義の錚々たる門下生が書を寄せている。序文には品川・野村の両内務大臣、林友幸伯爵(水戸県権知事)や楫取素彦男爵の書があり、末尾には吉田家の養嗣子である吉田庫三が跋文を書いているものものしさである。

写真は右が廿一回 伊藤博文書、左が「離地而無人離」と書かれています。これは廿一回とは松陰が野山獄で「二十一回猛士」の夢で神人のお告げから好んで号したもので、意味は吉田も杉も分解すると二十一となるものである。「杉」を分解すると、木篇は十と八、作りの彡は三、つまり、合計二十一となるというわけである。生涯に二十一回の「猛」の行動を国の為に発する決意が込められている(全集9巻・幽囚録付録、87頁「二十一回猛士の説」収載)。右の「離地而無人離」は松陰が下田からの密航を企てた時の弟子、渋木松太郎に学問のしかたを諭した時の言葉である。「余曾て亡友渋木生の為めに、学業の次叙を語りて云はく、地を離れて人なく、人を離れて事なし、人事を論ずる者は地理より始むと。渋木生深く是れを然りとし、是れより思を輿地の学に深うす。」(全集第3巻・講孟余話401頁)を土屋蕭海が名言と称したのに因むことばである。

このような経緯で刊行された松陰伝であるが、この本は研究書と異なり、「維新史料の編纂」に一環として刊行されたようである。それまで、杉家、吉田家、松下村塾や門下生・松陰神社が各々保管していたものから、重要な著作をリストアップして編纂し、解説は加えられていない。然し、ある程度、纏まった伝記の嚆矢としての意義が大きい。それ故に、有名な関係人物の書が本の始めをものものしく飾っているのである。日本の歴史上、人気投票すれば、松陰は最上位に来るだろうとは吉田松陰の解説を書いた藤田省三氏の言である。
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