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「花燃ゆ」の主人公
【2013/12/04 22:36】 エッセイ
【2015度のNHK大河ドラマ】

吉田松陰の妹「文」を主人公とする『花燃ゆ』のタイトルで、再来年の番組が決定、発表された。
『花燃ゆ楫取美和子』


ことしの「山本八重」同様に、主人公としては「知名度」が高くないのが気がかりである。
「松下村塾の双璧」とされた久坂玄瑞は、吉田松陰が期待してやまなかった人物で、師の松陰がわざわざ妹との結婚を希望して妹婿の関係になった人物である。高杉晋作とともに、松陰が将来を託したが、期待通りに縦横に活躍したが、高杉ほどの知名度はない。松陰亡きあとの実質上のリーダーであった。マツノ書店刊行の『久坂玄瑞全集』(福本義亮著)には、久坂の「文」宛ての書簡が収載されている。久坂が「文」との結婚を躊躇った理由が面白い。自らの「男前」に合う「美人」を希望していて、松陰の希望に返事をしなかったという。それを、松陰の友人で村塾の先輩格であった「中谷正亮」が理由を問い糺し、久坂の胸の内を聞いて詰問に及んだ。そして「君は貌の良否で嫁撰びするのか」と説諭た末に、久坂が受け入れて同意したという逸話がある。この背景に、久坂が15歳の時に親兄弟を失って、天涯孤独の境涯であったこと、豊かな才能を開花させてやりたいと願った松陰の思いがあるようだ。松陰の機体に答えた逸材だが、知名度に劣るのが残念である。
久坂玄瑞(小)24.3.25楫取美和子


後年、西郷隆盛が久坂先生と呼んで大変高い評価をしている。また、文久二年、土佐勤王等の盟主「武市瑞山」の名代として、萩を訪問した坂本龍馬を「覚醒させた人物」でもある。このことがなかったら、後年の坂本龍馬は存在しなかったに違いない。久坂は、長州尊攘派のリーダーであった。
地元の山口県では知らぬ人はない程の人物である。マスコミへの露出度が少ないが、直木賞作家の「古川薫」さんが『花冠の志士』の題名で小説を書いている。遺された写真で久坂玄瑞と称されているものを見ると、眉目秀麗で引きしまった凛々しい青年の顔である。同僚の吉田稔麿(松下村塾の四天王と称えられた)が画いた、塾生の「寸評画」によると、「高杉晋作」はあばれ牛、「久坂玄瑞」は廟堂に映える堂々たる人物との印象の絵が画かれている。

画いた本人の吉田稔麿も、師の松陰が愛してやまなかった人物である。
明治になって、伊藤博文が松陰にはそれほど薫陶を受けていないと、回想している。一方の山県有朋は博文よりも、松陰との接点が少なかったのも拘らず、大なる薫陶を受け、「自分が今日あるのは吉田松陰」先生のお陰であると、対照的な反応の逸話がある。実は、伊藤博文は松陰の主宰する松下村塾(第三代)以前の久保五郎左衛門の主宰(第二代)の時、吉田稔麿と机を並べて学んだが、つねに後塵を拝していたという。伊藤博文も優秀であったが、吉田稔麿にだけはどうしても勝てなかったことから、正直に言えなかったのではないかと推測する人がいる。負けん気が高じて明治の顕官となったので、プライドが許さないと云うわけか。

さて、久坂は吉田松陰亡き後、松下村塾の牽引車として、松陰の期待に答えて活躍するが、惜しいかな、禁門の変で戦死(自刃)してしまう。久坂は「文」との間に、子供がなかったので、遺された文は寡婦となったまま明治を迎える。文の姉である「壽」(ひさ)が、嫁いだのが小田村伊之助という儒者だった。
吉田松陰の母


夫は名県令として8年間、群馬で多くの治績をあげて任務を終える。そして東京に戻り「元老院議官」そして「貴族院議員」となる。更には男爵となって名実ともに功労者として、楫取家の名跡を残しつつ大正元年に生涯を閉じる。男爵婦人となると「天のへの挨拶」という、重要な儀式(要務)があり、相応しい着物に苦労したと、笑えない苦労話がある。「文」改め「美和」は、実子こそ残さなかったものの、姉の子息を育て上げ功労貴族としての楫取家を守り抜いて、大正の後期に生涯を閉じることになる。予期せぬ男爵夫人の生涯をNHKがどう描くか?


松下村塾は吉田松陰の生家である「杉家」の物置小屋を改良したもので、十八畳半の狭い「学び舎」であった。萩の松陰神社境内に残る、塾舎を見ると殆どの人がその「粗末さ」に驚くようである。この狭い塾舎で学んだ92名の内から、明治になって5人もの大臣(そのうち総理2人)をはじめ、経済人、裁判官、教育者等々多くの人材を輩出する。この塾で裏支えをした人物こそ「文」なのであった。若いながら「気遣い」のよくできた娘であったことから、村塾生にも可愛がられたようである。最後に男爵夫人として、新日本建設に功績を残した楫取家を守り、報われた生涯と云える。
楫取素彦24.4.24


小田村は、松陰の信頼が厚く、久坂と共に松陰亡き後の松下村塾を託されたほどの人物であった。長州征伐や薩長同盟に、裏方として活躍するが、新政府誕生後は隠棲する。しかし、新政府は毛利敬親の死後に行われた「廃藩置県」後に、小田村(慶應年間に楫取素彦と藩主の要請で改名)は、足柄県(今の小田原から伊豆近辺)に出仕させる。
さらに熊谷県、群馬県(第二次)の県令として重要な地方官として実績をあげるが、明治14年に妻の病死に遭遇する。実は、壽は健康問題から、晩年は静養で東京に住むことになり、この間に現役県令として多忙だった楫取を支えたのが、妹の「文」であった。母の「滝」のすすめにより、後妻として結婚することになる。この時に「文」から「美和」へ改名している。こうした姉妹婚の例は、現在では稀だが、当時は必ずしもそうではなかったようである。
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