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德川慶喜の「大政奉還」
【2013/12/11 15:54】 エッセイ
徳川慶喜『大政奉還』上奏文
慶應三年十月、倒幕(討幕)路線と政権返上(公議政体)路線が鎬を削っているさなか、虚を突くように慶喜は先手を打った。しかし、同時期に出された「倒幕の密勅」によって、慶喜の意図は挫折してしまう。吉田松陰が、安政五年七月に『大義を議す』で「義を正し道を明らかにし、功利を謀らず。これ聖賢の教えたる所以なり。勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義なり。」として「征夷は天下の賊なり」と討幕を唱えてから、九年が経過しての徳川の末路であった。 その政権返上の文章は下記の通り。(出典:国史大辞典)
大政奉還の図


「臣慶喜謹テ皇國時運之沿革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解テ相家権ヲ執リ、保平之乱政権武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ竉眷ヲ蒙リ、二百余年子孫相受、臣其奉職スト雖も、政刑当ヲ失フコト不少、今日形勢ニ至候モ、畢竟薄徳之所致、不堪慙懼候、況ヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝権一途ニ出不申候而者、綱紀難立候間、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ奉帰、広ク天下ノ公議ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇國ヲ保護仕候得ハ、必ス海外万国ト可並立候、臣慶喜國家ニ処尽、是ニ不過ト奉存候、乍去猶見込ノ儀モ有之候者可申聞旨、諸侯江相達置候、依之此段謹テ奏聞仕候、以上 詢 十月十四日 慶喜」


『口語訳』

天皇陛下の臣たる慶喜が、謹んで皇国の時運の沿革を考えましたところ、かつて朝廷の権力が衰退して相家(藤原氏)が政権を執り、保元・平治の乱で政権が武家(武門)に移りましてから、祖宗(徳川家康)に至って更なるご寵愛を賜り、二百年余りも子々孫々がそれを受け継いでところであります。
そして私(慶喜)が其の職を奉じて参りましたが、その政治は当を得ないことが少くなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、ひとえに私の不徳の致す所、慚愧に堪えない次第であります。
ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければ最早国の根本が成り立ちませんので、此の際従来の旧習を改めて、朝廷に政権をお返し奉り、広く天下の公議を尽くしたうえでご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことが出来るものと存じ上げます。 私が国家に貢献出来ることは、これに尽きるところではございませんが、なお、今後についての意見があれば申し聞く旨、諸侯へは通達致しております。以上、本件について謹んで奏上し、お詢り申し上げます。十月十四日 慶喜

徳川慶喜




この「大政奉還」は、土佐藩の坂本龍馬から執政後藤象二郎を通じて、前藩主「山内容堂」から建白され、これを受けた慶喜が苦慮の末、決心して「高家右京太夫・大沢基寿」を参内させてこの「上奏文」を提出したと云われている。

この一か月後、十一月十五日の夜、坂本龍馬(自らの誕生日)は同志の中岡慎太郎と会談中に、刺客に襲われて落命する。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では、この慶喜の決断を『よくも断じ賜えるかな!よくも断じ賜えるかな!』と繰り返した、坂本龍馬の感激の場面の描写があったことを、四十年以上経過した今でも覚えている。 


徳川将軍は15名いるが、一人慶喜だけはお墓が「谷中墓地」である。水戸徳川家からの将軍誕生も異色なら、墓地も「神式」と異例ずくめである。芝増上寺か上野寛永寺が普通なのに、考えようによっては仲間外れにされているようにも見える。そして、勝海舟は慶喜の末の子息「精」(くわし)を勝の養子として迎える。慶喜はこの報を聴いて「勝は恨んでいなかったか!」として絶句し、感激の涙を流したようである。
勝海舟は、表舞台でも、裏の舞台でも「德川将軍」に対して『けじめ』をつけた。
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