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吉田松陰の『妹達のこと』
【2014/01/14 15:28】 エッセイ
  「吉田松陰の妹・三人のこと」

妹・千代松陰の妹 壽楫取美和子

吉田松陰の妹、三人の写真が残されている。左から、長女「千代」、次女「壽」、四女「文」である。

○兒玉千代は天保3年(1832)年生誕、大正13年(1924)没、享年93歳。
「吉田松陰全集、第10巻、523頁収載」
兒玉初之進(長州藩士、53石)の妻。千代、後名を芳と改む。松陰の妹中最年長者たるの故を以て、妹等の代表となりてよく兄の教訓に應へ、又兄の在獄中はその憂苦を慰め、物品を贈遣する等の事を自らし、往復の文書最も多し。(※8通が収載)またよく家庭を治めて長壽を保ち、晩年は兄松陰の精神顕彰に心を用ひたり。(※安政元年12月3日付け書簡は後述する)。

○壽は天保10年(1839)生誕、明治14年(1881)没、享年43歳。
夫は儒官の楫取素彦(慶應3年9月25日改名)、以前は「小田村伊之助」と称す。松陰在世中は小田村姓であった。明治9年群馬県令。男爵、元老院議官、貴族院議員等歴任。
壽よく家を守り、二兒を教養して夫をして後顧の憂なからしめ、夫の入獄時(元治元年12月収監・11月に遺書をしたたむ)又は四境戦争時の如きは烈婦として令名を馳せたり。惜しいかな晩年健康勝れず、明治14年遂に夫に先だちて歿す。後妹美和入りて嫁す。
(※嘉永6年、江戸に遊学中の松陰宛に、兄梅太郎から「壽」が小田村との結婚を知らせる手紙が届く。松陰は、8月15日付けの返信で「壽妹儀小田村氏へ嫁せられ候由、先々珍喜此の事御同慶仕り候。彼の三兄弟皆読書人、此の一事にても弟が喜ぶ所なり」。小田村へ嫁入りした事を喜んでいる。元治元年冬、藩内抗争で野山獄に収監される。此の時、壽宛に遺書が書かれた)。

○文は天保14年(1843)生誕、大正10年(1921)没、享年79歳。
文後に美和と改む。夫玄瑞東奔西走殆ど寧日なく、席暖るの日なかりしに、よく家を守りて後顧の憂なからしめ、子なきを以て小田村(楫取)の一子を養ふ。玄瑞の死後専らこの子を携へて久坂家の復興に力めしが、この子ゆえありて楫取家を嗣ぎ、文また後に亡姉壽の後を襲ひて楫取素彦に嫁す。(※時に明治16年、美和と改名後、家族・親族の勧めによる。楫取は生前の松陰が後事を託した人物であった)。


以上が、吉田松陰全集の『関係人物伝』の三姉妹の記述である。夫中心の記述方法を採っているので、文章も、妻としての立場での生涯(婦道論的)記述となっている。 特に、長女の千代とは年齢が近いため、松陰が可愛がったことが窺われ、長寿と云うこともあって、明治末に「松陰に関して」取材を受けた。大正二年にも「松陰回想記」とでもいうべき記事が収載されている。松陰の人となりを知るに、格好の資料を提供してくれている。 今回は、最も有名な安政元年12月の手紙を、全文紹介する。

その前に、特記しておきたいことを、いくつか書きます。安政6年4月13日、松陰が二度目の野山獄収監中に千代宛てに出した手紙を、抜粋して書きます。(全集第8巻、305、306頁収載)
○・・・・・・杉は今では御父子とも御役にて何の不足もない中なれば、子供等がいつも此の様なものと思うて、昔山宅にて父様母様の、晝夜御苦労成された事を話して聞かせても眞とは思はぬ程なれば、此の先五十年七十年の事を得と手を組んで案じて見やれ。・・・・・・若しや萬一小太郎でも父祖に似ぬやうな事が有ったら、杉の家も危ない、危ない。父母様の御苦労を知って居るもの兄弟にてもそもじまでじゃ。小田村でさへ山宅の事はよく覺えまい。まして久坂なんどは尚ほ以ての事。されば、拙者の気遣ひに観音様を念ずるよりは、兄弟をひめひ(甥・姪)の間へ、楽が苦の種、福は禍の本と申す事を得と申して聞かせる方が肝心ぢゃ。・・・・・・兄弟も仲良くなるものぢゃ。夫れで是れからは拙者の代りに父母へ孝行して呉れるがよい。左様あれば縮(つづま)る所兄弟中皆よくなりて果は父母様の御仕合せ、又子供が見習へば子孫のため是れ程目出度いことはないではないか。・・・・・・長閑さよ願ひなき身の神詣で
神へ願ふよりは身で行ふがよろしく候。十三日したたむ。

○諸妹に贈る
心あれや人の母たる人達よよかからん事は武士の常(東行前日記:安政6年5月17日)

『花燃ゆ楫取美和子』


※平成27年(2015)年度の、「NHK大河ドラマ」の計画が昨年末に発表された。
『花燃ゆ』というタイトルで、吉田松陰の「妹」が主人公になるそうである。
吉田松陰の家族は、父親が「杉百合之助」、母が「たき」(瀧子)の両親の下、上から順に梅太郎、大次郎(松陰)、千代、壽、艶(早世)、文、敏三郎と3男4女の7人兄弟姉妹であった。
松陰は、文政十三年(1830)八月四日に誕生、そしてこの年は松陰が誕生して四か月余り後の十二月十日に、年号が「天保」と改元される。したがって、西暦では1830年ですが、本によっては文政十三年や天保元年の誕生と記述に、バラツキが見られる。
松陰は二十歳過ぎから遣い始めた「号」で、諱(本名)は矩方(のりかた)と言う。誕生時の正式な名前は「杉大次郎矩方」というのが正しいのです。ここでは、紛らわしいので「松陰」の名前を使います。
松陰が数え年五歳の時の天保五年、父・百合之助の弟である「吉田大助」の仮養子となった。そして翌年、養父の「吉田大助」の死去によって「吉田家」の当主となります。つまり、父の弟(叔父)の家に後継ぎがいなかったため、養子となったわけです。江戸時代は、後継ぎがいない場合、養子制度で後継ぎを届け出て認可されないと「お家断絶」となってしまう。そのため、次男や三男は原則として養子に入る。
これが出来ないと、井伊直弼(十四番目の男子)のように、部屋住みといって、当主のスペアの意味をこめて不遇をかこつ人生を送らねばなりません。余談ですが、直弼は、ある大名家から養子の話があり、弟と二人が候補者として指名されたが、くじ引きではありませんが、弟が養子となって、自身は「一生部屋住み」を覚悟して「埋木舎」と自分の住居を名づけて、趣味の道で一生を送ろうとしていたら、当主であった兄の死去によって、幸運にも名門「井伊家の当主」の坐が転がり込んで、後に大老となる数奇な運命を辿った人物であった。

松陰の妹「千代」宛て手紙
さて、掲題の記事に入ります。吉田松陰全集第七巻、279頁に、『妹、千代宛て』と題した書簡が収載されています。松陰が萩の野山獄から出した手紙で、安政元年十二月三日の日付です。これは、松陰が「下田密出国」の企てが失敗に終わり、幕府の裁決を受けて「長州藩政府の判断」で萩の「野山獄」に投獄されて50日程経過したころの手紙である。人の道、婦人の道、誠の在り方、孝行の在り方など、松陰の価値観、人生観が綴られている有名な手紙である。最後に、俳句の指導をしている。妹の千代は、この時23歳。松陰より二才年下で、兄の梅太郎と共に大変仲の良く、松陰も可愛がった女性です。読んで見ると大変面白い。以下、原文を下記します。長文ですが、末尾に近くに書かれている「杉家の家法に世に及び難き美事あり・・・・・・」が、非常に有名な文で、松陰の家族を語った書物には必ず紹介されます。今回は、長女の「千代」を取り上げます。なお、『花燃ゆ』の主人公は、四女の「文」(ふみ)で、此の役を「井上真央」さんが演じるとの発表があった。


『妹千代宛』
十二月三日  (松陰、在 野山獄 ・ 千代、在 萩松本)

十一月二十七日と日づけ御座候御手紙、幷びに九ねぶ・三かん・かつをぶしともに、昨ばん相とどき、かこひの内はともしくらく候へども、大がい相わかり候まま、そもじの心の中をさっしやり、なみだが出てやみかね、夜着をかむりてむせり候へども、如何にもたへかね、又起きて御文くりかへし見候て、いよいよ涙にむせび、つひに夫れなりに寝入り候へども、まなくめがさめ、よもすがらね入り申さず、色々なる事思ひ出し申し候。わもじは、父母様やあに様の御かげにて、きものもあたたかに、給物もゆたかに、あまつさへ筆かみ書もつまで何一つふそくこれなく、寒きにもきけ申さず候間、御安心成さるべく候。そもじの御家おばさまも、御なくなりなられ候事なれば、そもじ萬たん心懸け候はでは相すまぬ事、ことにおぢさまも年まし御よはひ高く成らせれ候事ゆゑ、別して御孝養を盡し候へかし。又萬子も日々ふとり申すべく候へば、心を用ひてそだて候へ。赤穴のばあさまは御まめに候や、御老人の御事、萬事気をつけて上げ候へ。かかる御らう人は家の重はうと申すものにて、きんにも玉にもけへらるるものに之なく候。そもじことは、いとけなきをりより心得よろしきものとおもひ、一しほ親しく思ひ候ひしが、此のほど御文拝し入らざる事までも申し進め候なり。
三日                     大にい
別にくだらぬ事三四まいしたためつかはし候間、おととさまか梅にい様に、讀みよき様に寫してもらひ候へ、少しは心得の種にもなり申すべく候。扨て御たようの中にも、手習よもものなどは心掛け候へ。正月には、一日どもはやぶ入り出来申すべくや。どうぞあに様の御きう日をえらび参り候て、心得になる噺ども聞き候へ。拙も其の日分り候はば、昔噺なりともしたためて遣はし申すべし。又正月にはいづくにもつまらぬ遊事をするものに候間、夫れよりは何か心得になるほんなりとも讀んでもらひ候へ。貝原先生の大和俗訓・家道訓などは、丸き耳にもよくきこゆるものに候。又浄るりぼんなども心得ありてきき候へば、ずゐぶん役にたつものに候。扨て又別にしたためたる文に付き、うたをよみ候間ここにしるし侍りぬ。
頼もしや誠の心かよふらん文みぬ先きに君を思ひて
右のしたためたるは、そもじを思ひ候よりふでをとりぬるが其のよ、そもじの文の到来せしは定めて誠の心の文より先きに参りたるにやと、いとたのもしくぞんじ候まま、かくよみたり。
三日
凡そ人の子のかしこきもおろかなるもよきもあしきも、大てい父母のをしへに依る事なり。就中男子は多くは父の教えを受け、女子は多くはははのをしへを受くること、また其の大がいなり。さりながら、男子女子ともの十歳已下は母のをしへをうくることは一しほおほし。故は父はおごそかに母はしたし、父は常に外に出で、母は常に内にあればなり。然れば子の賢愚善悪に関るところなれば、母の教ゆるがせにするべからず。併しその教といふも、十歳已下に小児の事なれば、言語にてさとすべきにもあらず。只だ正しきを以てかんずるの外あるべからず。昔聖人の作法には胎教と申す事あり。子胎内にやどれば、母は言語立居より給ものなどに至るまで萬事こころを用ひ、正しからぬ事なき様にすれば、生るる子、なりすがたただしく、きりやう人の勝るとなり。物しらぬ人の心にては、胎内に舎れるみききもせずものもいはぬものの、ははが行を正しくしたりとてなどか通ずべきと思ふべけれど、こは道理を知らぬゆゑ合点ゆかぬなり。凡そ人は天地の正しき気を得て形を拵へ、天地の正しき理を得て心を拵へたるものなれば、正しきは習はず教へずして自ら持得る道具なり。ゆゑに母の行ただすければ、自らかんずること更にうたがふべきあらず。是れを正を以て正しきを感ずるともうすなり。まして生まれ出て目もみえ耳もきこえ口もものいふに到りては、たとへ小児なればとて何とて正しきに感ぜざるべきや、扨て又正しきは人の持前とは申せども、人は至ってさときもの故、正しからぬ事に感ずるも又速かなり、能々心得べきことならずや。因って茲に人の母たるものの行ふべき大切なる事を記す。此の他ちひさきことは記さずとも、人々弁ふる所なれば略し置きぬ。いろはたとへにも氏よりは育ちと申す事あり、子供を育つる事は大切なる事なり。
一、 夫を敬い舅姑に事ふるは至っての大切なる事にて、婦たるものの行これに過ぎたる事なし。然れども是れは誰しも心得ぬものなれば申さずともすむべし。扨てかんやうは、元祖已下代々の先祖を敬ふべし。先祖をゆるがせにすれば其の家必ず衰ふるものなり。凡そ人の家の先祖と申すものは、或は馬に乗り槍を堤げ、数多度の戦場にて身命を擲ち主恩の為めに働きたるか、或は数十年役儀を精勤し尋常ならぬ績を立てたるか、或は武芸人にすぐれたるか、文學世にきこえたるか、何にせよ一かたならぬことありてこそ、百石なり百五十石なり知行を賜はり、子孫に傅へたるなり。その以下の先祖と申すものも、夫々御奉公其の節をとげたればこそ、元祖同様に知行を賜はりぬる事なり。この所を能々考へ、この一粒も先祖の御蔭と申すことを寝ても醒めても忘るる事なく、その正月命日には先祖の事を思ひ出し、身を潔くし體を清め是れを祭奉りなどすべし。又一事を行うにも先祖へ告り奉りて後行ふ様にすべし。さすれば自ら邪事なく、する事なす事皆道理に叶ひて、其の家自ら繁昌するものなり。もしこのこころえなく己がこころまかせに吾儘一杯を働きなば、如何で其の家衰微ぜざらんや。聖人の教は死去りて世に居給はぬ先祖に事ふること、現在の親祖父に事ふ如くすべしとあり。今親祖父げんざいし給へば何事も思召しを伺ひてこそ行ふべきに、世に居給はぬとて先祖の御心をも察し奉らず吾儘計離働くは、是れを先祖を死せりと申す、勿體なき事どもなり。
註、婦人は己が生まれたる家の先祖の大切なる事は、生まれ落つるとより弁へ知るべけれど、ややのすれば、ゆきたる家の先祖の大切なる事は思ひ付かぬ事もあらん。能々心得べし。人の家にゆきたれば、ゆきたる家が己が家なり。故に其の家の先祖は己が先祖なり。ゆるがせにする事なかれ。又先祖の行状功績等をも委しく心得置き、子供等へ昔噺の如く噺し聞かすべし。大いに益ある事なり。
一、神明を崇め尊ぶべし。大日本と申す國は神國と申し奉りて、神々様の開き給へる御國なり。然ればこの尊き御國に生まれたるものは貴きと賤しきとなく、神々様をおろそかにしてはすまぬことなり。併し世俗にも神信心といふ事する人もあれど、大てい心得違ふなり。神ともうすものは正直なる事を好み、また清浄なる事を好み給ふ。夫れ故神を拝むには先づ己が心を正直にし、又己が體を清浄にして、外に何の心もなくただ謹み拝むべし。是れを誠の神信心と申すなり。その信心が積りゆけば二六時中己が心が正直にて體が清浄になる、是れを徳と申すなり。
菅丞相の御歌に「心だに誠の道に叶ひなば祈らずとても神や守らん」。又俗語に、「神は正直の頭に舍る」といひ、「信あれば徳あり」といふ、能々考へて見るべし。扨て又佛と申すものは信仰するに及ばぬ事なり。されど強ち人にさからうて佛をそしるも入らぬ事なり。
一、 親族を睦じくする事大切なり。是れも大てい人の心得たる事なり。併し従兄弟と申すもの、兄弟へさしつづいて親しむべき事なり。然るに世の中従兄弟となれば甚だ疎きものおほし。能々考へて見るべし、吾が従兄弟と申すは父母の侄なり。祖父母よりみれば同じく孫なり。さすれば父母・祖父母の心になりて見れば、従兄弟をば決してうとくはならぬなり。併しながら従兄弟のうときと申すは、元来父母・祖父母の教の行きとどかぬなり。子を教ふるもの心得べきなり。凡そ人の力と思ふものは兄弟に過ぎたるはなし。もし不幸にして兄弟なきものは従兄弟にしくはなし。従兄弟・兄弟は年齢も互に似寄りて、もの學しては師匠の教を受けし事をさらへ、事を相談しては父母の命をそむかぬごとく計らふ。皆他人にてとどく事にあらず。此の處を能く考ふべき事なり。
茲に一つの物語あり、吐谷渾と申す夷國の阿豺と申すひと、子二十人あり。病気大切なりければ、弟の慕利延を召て申すには「汝壹本の矢をとりてをれ」。慕利延これを折りたれば、又申すには「汝十九本の矢をとりてをれ」。慕利延折る事あたはず。阿豺申すには「汝等能く心得よ、一本なれば折りやすし、數本集まれば折りがたし、皆々一致し國を固めよかし」と。國にても家にても道理は同じ事なり。とかく夫人の詞よりして親族不和となる事おほし、忘るべからず。
右に記しぬるは先祖を尊ぶと、神明を崇むると、親族を睦まじくすると、己上三事なり。是れが子供を育てつる上に大切なる事なり。父母たるもの此の行あれば、子供は誰れ教ふるとなく自ら正しき事を見習ひて、かしこくもよくもなるものなり、扨て又子供やや成長して人の申す事も耳に入る様になりたらば、右等の事を本とし古今の種々なる物語致しきかすべし。子供の時聞きたる事は年をとりても忘れぬものなれば、埒もなき事を申し聞かすよりは少しなりとも善き事を聞かするにしくはなし。

杉の家法に世に及びがたき美事あり。第一には先祖を尊び給ひ、第二に神明を崇め給ひ、第三に親族を睦まじく給ひ、第四に文學を好み給ひ、第五に佛法に惑ひ給はず、第六田畠の事を親らし給ふの類なり。是れ等の事吾なみ兄弟の仰ぎつとめるべき所なり。皆々能く心懸け候へ、是れ則ち孝行と申すものなり。 此の書付は阿千代・阿壽等へ示し申すべくとて先日より胸中にたくはへ候處、所詮讀書の閑なく夫れきりにいたし置き候。昨朝無事故風と思ひ付き認め懸け候。又暮程に見候へば餘り拙き故止め申すべくと存じ候處、夜中阿千代が文を見、涙を流し、所謂鬼の目にも涙とやら云ふしにて、頻りになつかしく相成り候故、拙きながら妹等へ遣はし申し度く存じ候。久しく胸中に蓄へたるを昨風と筆を下し、其の夜千代が文参り候事、精誠の感通かとも思はれ候。拙きは何とせう、御閑御座候はば半枚五行位に讀みよきやうに御認め、両妹などへ御與へ遣はさる間布くや。恐れながら尊大人へ御頼み仕り然るべくや、萬々宜しく頼み奉り候。
三日                               寅じ


姪阿萬に與ふ

萬也當日長。 不見又一年。 已免父母懐。未立師傅前。仲父坐牢狴。 晨夕守遺編。
愛汝無助之。 道古附詩編。王尊叱九折。 孟母楽三遷。 分陰師陶侃。一経慕韋賢。
忠孝誠可貴。學問為之先。 萬也汝善聴。長江有深淵。
大二郎もの
阿妹千世より息萬へ歌よみて給へと申し遣はしければ      のりかた 
たらちねのたまふその名はあだならず千世萬世へとめよその名を


発句の事に付申しこされ候趣承知致し候。どうぞ心懸けられ候へかしとぞんじ候。さして六ヶ敷き事にはあるまじく候。存じ候所を申すべし。発句は趣向をたててすべし。題に相應の趣向あるべし。たとへば梅の句なれば梅は體なり、夫れへ橋にてももつてむかふが則ち趣向なり、あとは句作りと心得べし。柳の句なれば柳は體なり、涙は用なり、趣向なり、これへ句作りを付けてすべし。 
  浪にたつ、 涼しさ持ちて、柳かな
 古池に、蛙飛びこむ、水の音(古池は題なり、蛙は趣向なり、あとは句作りなり)

発句はただ心に思ふままを作るべし。
発句には必ず黄瀬戸申すものを入れねばあしし。春夏秋冬の類なり。春雨、春風、秋の暮、冬枯れなど、其の外秋なれば、菊、熟柿、霧、月、うら枯、初鴨、尾花、新酒、露時雨などのるゐ、一々数へがたし。此の間當所にて出来たる発句左に出す。

うら枯や、只さうさうと、秋の風  題うら枯
糸車、手もおだれけり、秋の暮   同秋の暮
初鴨の、行くかた哀し、秋間暮   同初 鴨
廣野ゆく、吾が袖寒き、尾花哉   同尾 花
朝霧に、跡先知れぬ、縄手哉    同霧
圖らずも、木の葉をちらす、秋の風 同秋 風
珍らしう、呼ばれて譽める、新酒哉 同新 酒
朝ぎりに、ぬれる帽子や、暮の秋  同ゆく秋
此のるゐにて御考へ候て一二句讀みて見給へ。


このように、松陰はすぐ下の妹「千代」には、愛情たっぷりの手紙となっています。また、妹の兄への心遣いに感激して、夜も眠れなかったと告白もしています。 反面、「婦人道」のような教訓も解いています。江戸時代の女性は十代で嫁入りが普通だったので、このとき千代は「兒玉家」(母たきの実家)に嫁入りしています。少しく、このいきさつを説明すると、松陰の母・「たき」は、村田右中と云う「陪臣」(藩士の家臣)の家に生誕。杉家は「家格」は低いものの、れっきとした「藩士」の家柄です。このため、家格を合せる必要があり、藩士の「兒玉家」の養女となり、こうした手続きを経て、杉家と同格の家柄同志の婚姻となったわけです。ただし、生家の村田家は、身分は陪臣と云う低い家格ではあったが、経済的には杉家より裕福であった。

獄中で書いた手紙として面白いのは、妹への感謝もさることながら、姪である「阿萬」のことまで、心遣いをしていることである。
松陰全集には、この他に千代宛の書簡が七通と千代を含む親族宛てが二通収載されているが、断然この手紙が有名なので、長文ながらあえて書きました。 また、大正二年に「家庭の人としての吉田松陰」と題した、いわば「回想の松陰」とでもいうべき、長文の口述筆記が全集第十巻に収載されています。
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