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幕末土佐藩と山内容堂
【2010/08/10 22:49】 エッセイ
今日は、松陰から離れた土佐藩の話です。
薩長土肥で土佐は勤皇藩と言われながら、薩長の討幕路線と異なった。藩主の特殊事情ゆえでした。
幕末四賢候の一人と言われながら、容堂は龍馬の「船中八策」に近い政策を建白した理由が書いてあります。

目下「NHK大河ドラマ」で『龍馬伝』を放映中です。明治維新は俗に「薩長土肥」と言われ、新政府への貢献、主導権を握った藩です。これは、幕末の藩主が「名君」であったことが共通しているようである。但し、毛利慶親は凡庸とも名君とも言われるので若干ニュアンスが異なる。
山内容堂24.4.24


土佐藩主山内家の遠祖は藤原鎌足と言われる。俗称・俵藤太という「藤原秀郷」の流れで、鎌倉の「山内庄」を領したことから「山内氏」を称したと家伝に記されているという。(平尾道雄著・山内容堂)

安土桃山のいわゆる戦国末期に豊臣秀吉に仕えた「山内一豊」が徳川治世の初代藩主である。この一豊は「内助の功」で有名な妻のお陰で立身出世を遂げたのは有名である。
豊臣秀吉に仕えたのが出世の始まりだが、関が原の戦いでは「東軍」に属して徳川家の「戦功大なり」の褒章に預かった。そして遠州掛川6万石から一躍24万石の大名として幕末まで続く「国主大名」として優遇された。容堂は第15代である。襲封は嘉永元年(1848)、22歳の時であるが、実は大変に幸運な運命で藩主となった。以下、その事情を記します。

幕府の天保の政治改革(水野忠邦)宣言と同年、土佐藩も藩政改革を発令した。二年後の天保14年(1843)、藩主に就いた豊煕(とよてる)は嘉永元年(1848)急死。実弟の豊惇(とよあつ)が継ぐが二ヶ月で急死。嗣子がなく幕府に秘匿して容堂の養嗣と豊惇の隠居とが幕府から相続を認められた後に、豊惇の病死を発表するという際どい家督相続だった。
12代藩主から15代藩主まで僅かに7年。しかも容堂は12代の弟の子供で、いわゆる分家からの相続である。これに感謝した容堂は、初代の一豊の恩と重ねて徳川の特別な恩顧の念を抱いた。そして翌年に養子を定め、その翌年に右大臣・三條実万の養女正姫(なおひめ)と結婚。朝廷とも縁が出来た。そして「従四位土佐守」に叙任、更に「侍従」に昇任したのである。

こうした事情が「討幕」手段を採らずに「大政奉還」と「公儀政体論」への移行を画策したが、志半ばで「薩長」の討幕路線と対立して容堂の路線は挫折してしまう。また、吉田東洋を抜擢して藩政改革を進めたが、暗殺されてしまい、跡を継いだ東洋の甥である後藤象二郎は「土佐勤皇党」の武市半平太の指示で東洋を暗殺した勤皇路線を受け入れず、土佐藩は薩摩や長州と歩調を異にする。容堂にとっても恩顧ある徳川を潰す事に与するわけには行かなかった。藩主の座に就いた特殊事情と、藩政の責任者を暗殺されたことから勤皇討幕よりも大政奉還して、徳川のもとに新政府樹立を願ったが実現せず、過度の飲酒が祟り46歳で死去してしまう。時に明治5年6月。版籍奉還の建白が最後の大仕事であった。そして官位は正二位という最高の名誉に浴したのであった。

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