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妹・千代の「回想の松陰」①
【2014/01/18 16:00】 エッセイ
『家庭の人としての吉田松陰』①

大正二年一月   兒玉芳子


「吉田松陰全集第十巻」の『関係雜纂』に掲題のことが収載されている。文体からして判断すると、口述筆記であろう。いわば、「回想の吉田松陰兄さん」とでもいうべき内容である。少し長いが、身内の者から、松陰先生はどのように見えたかが解かって面白いので書写してみます。分量が多いので、二回に分けて掲載することにする。
妹・千代

○松陰の幼年時代
私共の父は杉百合之助と申しまして、長兄を民治といひ、次兄は寅次郎即ち松陰で、叔父に當たります吉田大助の家を継いだので御座います。
私共の一家は父をはじめ、矢張これも叔父に當たります玉木文之進と申すのも、塾を開いて居りましたやうなことで、誰れも青表紙を手にしないものはありませず、殊に兄の養家の吉田家は山鹿流軍學のいえであったのでございます。松陰は私より二歳上の兄で御座いましたが、五つ六つの時分から手習ひや、書物を讀むのが好きで、他家の子供達が大勢でいろいろな遊びをしてゐても、振り向きもせずに、ジツと書物を讀んでゐるといふ風だったそうで御座います。
偶に遊び事らしいことを致しますのが、屋敷の庭で、その頃土圖と申しましたが、鏝などで土をねって、山をこしらえたり、河の形を造ったり、つまり土でいろいろな圖を書くと申したやうなことをして居ったといふことで御座います。母はいつでも、寅次郎は何處に一點小言のいひどころもない、實にてのかからぬ子だと申して喜んで居りました。
非常に親おもひで、優しい氣質で御座いましたから、父や母に心配をさせまい、氣を揉ませまいと、始終それを心掛けて居たやうで御座います。着物などでも母が一枚こしらへて着せますと、何時まででも母が着かへさすまでは、黙って着て居ります。さうして其の構はぬ風と申しましたら、何時でも歩く時には、書物を澤山懐中に入れますので、着物の一方が曲って仕舞って、背縫の縫目が肩のところへ來て居るので御座います。叔母などが見かねまして、餘り醜いから書物は手で提げたら宜しかろうにと申しますと、手を明けておかぬと自由がきかぬなどと申しては、相變らす懐中をふくらませて、肩を曲げて歩いて居りました。


○物に動ぜぬ氣象
極く幼い時分から落ちついた人でした。藩には上覧のお講義と申して、殿さまの御前に出て講義を致す時があるのでございますが、兄は十歳位の時から、毎年それに出て居りました。所が確か十二三歳の頃で御座いましたらう、殿様から七書のお好みが出ましたさうで御座います。七書と申せば中々冊數も多いことで御座いますから、父や叔父などが心配して、せめて何處を出すといふことを仰せ下さったならば、下稽古もしておいてやらうものを、あれだけの書物の中から何處が出るか分からぬのだから、首尾よくお講義が出來れば宜いが、といろいろに氣を揉みますのを、兄は何構ひますものか、何處でも仰せの處をやりませうと、一向平氣で居りました。
その翌日御前に出まして、開かれた處をスラスラと、立派にお講義を致しましたとかで、殿様からひどくお賞めに預かり、御褒美を戴いて歸ったことも御座います。
松陰正装画像


○他人の為めに盡す
また兄は何事にでも自分を後にして、他人の為めに盡すといふたちの人で御座いました。或る時吉田の門人で、そして吉田家の後見役を致して居りました林といふ家に泊りに参りましたが、折惡しく丁度その晩林家から火事が出ました。火事と聞くと、兄は直ぐに跳ね起きて、枕元に置いてあった自分の大切なものは打ちすてて、他の室にかけて行き、林家の家財をドンドン運び出してやりました。後にその事が分りまして、先方では痛く氣の毒がられましたが、兄はあなたの方では大事な家を焼かれるのですから、一つでも餘計にものを出して上げたいと思ふのは人情でせう、そのために自分の少しばかりのものが焼けたと云っても不思議なことはありませんと云って居りました。


○兄弟は澤山御座いますが、下はずっと年が隔たって居りまして、長兄と松陰と私とが二年違ひづつで御座いましたから、いつも三人で何か致しました。
長兄と松陰とはまた非常に仲がよう御座いまして、叔父の玉木の所へも両人で勉強に参りました。夕方から両人連れで参りましては、叔父の門弟に教授をして遣り、自分達も稽古を濟ませて朝の八時頃に歸って参ります。御飯を頂きますのでも、両人が首を寄せまして、それはそれは親しいもので御座いました。
秋など屋敷續きの山に松茸が澤山出來ますので、今日は茸刈をしようかなどと申しまして、私と三人でよく其の山に参って面白く遊んだことも御座います。長崎に参ったり、いろいろ國事に奔走して居ります時でも、三人で楽しく遊んだ事を、よく夢に見て、其の時分を懐かしく思ふなどと手紙を私に呉れました。思ひ出すほど優しい人でありました。
私は早く縁づきましたし、今の娘さん達のやうに何處へ嫁入っても、何時でも構はず生家に往き來をすると申すやうな、そんな事は中々出來も致しませず、また自身でも好みませんから、生家に參るやうなことは滅多に御座いませんでしたので、兄は大層私を懐かしがって呉れまして、時をり便りの序には、今度は何時來るか、來られる時には前以て知らせてくれ、待って居るからなどと申してまいりました。
お正月などの遊びでも、無意味なことをしないで、いろはたとへをするとか、歌かるたでも取って、一字でも一句でも覺えて益するやうにせよなどと、よく教へて呉れました。

○最後の江戸行き
日は今一寸忘れましたが、兄が江戸へ護送されましたのは、確か安政六年の五月で御座いました。御承知の通りの勤王家で御座いましたから、よもや殺されようなどとは、私共はじめ思ひも致しませんでしたが、それとても普通の旅ではないのですから、本當に名殘りが惜しまれてなりませんでした。
父は申すまでもなく、母も氣丈な人でしたから、心には定めし不安もあったので御座いませうが、涙一滴こぼしもせず、私共に致しましても、たとへ如何なる事があるとも、斯る場合に涙をこぼすと申すことは武士の家に生まれた身として此の上もない恥かしい女々しいことと考へて居りますから、胸は裂けるほどに思ひましても、誰れも泣きは致しませんでした。
丁度出立の前夜で御座ひました。母が兄に向ひまして「今江戸に行っても、どうかモウ一度無事な顔を見せて呉れよ」と申しますと、兄は莞爾と微笑みまして、「お母さん、見せませうとも、必ず息災な顔をお見せ申しますから、安心してお待ち下さい」と事もなげに答へて居りました。けれども自分では再び生きて歸るとは思はなかった見えて、チャンと覺悟をしていたのでありました。
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