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久坂玄瑞から「文」宛ての手紙
【2014/03/04 14:08】 エッセイ
「久坂玄瑞」から「文(妻)」宛て書簡

2015年度の「NHK大河ドラマ」は『花燃ゆ』と題して、吉田松陰の妹が主人公となる。
推測される史料は、①「久坂玄瑞全集」(福本義亮編・マツノ書店刊)、②「久坂玄瑞」(武田勘治著・マツノ書店刊)、③「吉田松陰全集」、④「楫取家文書(一)(二)」(日本書籍協会叢書・東京大學出版会刊)によるものと思われる。




久坂玄瑞


今回は第一弾として、書簡の収載されている久坂玄瑞全集と楫取家文書の異同を確認してみた。全集では6番に(カ)と未確定な編集である。一方文書では13番が二つに分けてカウントされている。これ等については追って確認したい。以後、幾つかの文書解説を利用しながら、書簡の内容に立ち入ってみたい。また、「文」改め「美和」の概略の生涯も記していく。この20通の書簡が、基礎史料となるであろうことは間違いない。
楫取家文書に頁と史料番号が附してある。カッコ内の数字が史料番号。

No 書簡年月日      久坂全集 楫取文書 文書頁・(番号)
1 安政五年冬        ○ ○ 48(24)
2 萬延元年八月二十日  ○ ○ 93(49)
3 萬延元年九月二十四日 ○ ○ 94(50)
4 萬延元年十一月二十五日 ○ ○ 95(51)
5 文久元年二月二十六日 ○ ○ 96(52)
6 文久元年四月三日 ○(カ) ○ 119(67)
7 文久二年五月朔日 ○ ○ 126(72)
8 文久二年五月二十八日 ○ ○ 130(74)
9 文久二年六月二十五日 ○ ○ 134(76)
10 文久二年八月十三日 ○ ○ 141(81)
11 文久二年八月二十八日 ○ ○ 144(83)
12 文久二年閏八月十七日 ○ ○ 149(87)
13 文久二年十月九日 ○ ◎ 154(91)・157(92)
14 文久三年二月二十五日 ○ ○ 204(117)
15 文久三年四月二十五日 ○ ○ 214(122)
16 文久三年六月十三日 ○ ○ 220(128)
17 文久三年八月二十九日 ○ ○ 235(138)
18 元治元年正月十九日 ○ ○ 258(153)
19 元治元年三月二十五日 ○ ○ 263(157)
20 元治元年六月六日 ○ ○ 273(164)
楫取美和子 


上記の表は、「久坂玄瑞全集」と「楫取家文書」の確認ですが、上手く書き表せない。○印が二つ並んでいる場合は、両文書が一致することを意味している。6(全集では(カ)と日付が未確定)と13(全集では1で数え、文書では二通に分割)が両文書の異なりがあることを表示したかったのである。

猶、主人公の「文」さんについて、現時点で活用できる資料をもとにして、簡単な人物紹介の記事を書いておきます。
萩藩「無給通り」の藩士、杉百合之助(父)と、たき(母)の第四女として天保14年に生誕。兄弟姉妹は上から順に「長男・梅太郎」、「次男・寅次郎(松陰)」、「長女・千代」、「次女・壽」、「三女・艶(早世)」、「四女・文」、「三男・敏三郎」の三男四女であった。

また松陰の父・百合之助の兄弟姉妹は三男三女であったが、松陰の伝記では二人の弟しかほとんど書かれない。すぐ下の弟が吉田大助、その下が玉木文之進でこの二人の叔父は必ず書かれる。即ち、叔父の吉田家は「山鹿流軍学師範」の家柄で、家格も「大組士」で杉家よりも高い。玉木家も大組士(八組ともいう)で、百合之助の弟二人は、養嗣子として吉田家・玉木家を継いだのであった。寅次郎(後の松陰)は、次男であるから、他家へ養子に行かなければならなかった。偶々、叔父の吉田大助が子供が無かったことから、吉田家に幼くして養子となったわけである。そして、末弟の玉木文之進が、自宅を開放して「松下村塾」を開いたのが天保13年。翌年に百合之助は「百人中間頭兼盗賊改方」という、藩の役職についたのであった。それまでは、「半士半農」ともいえる生活であった。後年、松陰がすぐ下の妹・千代に宛てた書簡で「ご両親がご苦労されたのを知るのはそもじ迄じゃ。小田村(壽)や久坂(文)などは、此の実際を知るまい」と、書いているのは、藩の役職に就いていなかったことを云っているのである。

四女の「文」は、安政四年12月5日、松下村塾の門下生であった「久坂玄瑞」に嫁ぐ。これは、松陰が玄瑞の将来を期してのことだった。しかし、難局打開のため東奔西走の寧日を送った玄瑞は、「元治元年の禁門の変」で死去。以後、明治16年まで寡婦として毛利家の手伝いや、姉の壽が体調不良のため、群馬県令であった義兄の楫取素彦を助けていた。 明治14年、姉の壽が死去。親族の相談の結果、2年後に「楫取素彦」に嫁した。

楫取素彦


楫取は、二人の松陰の妹と結婚したのであった。明治20年、夫は男爵となり、美和(文の改名)は男爵夫人として人生の後半生を送る。大正元年、夫の素彦が死去。以後、楫取男爵家を守って、大正10年に79歳で死去する生涯であった。 なお、久坂玄瑞死去後から明治16年の再婚までの事歴は、詳細には解っていない。また、「文」から 「美和」へ、改名した時期についても確定していない。楫取家へ嫁ぐ以前であることは間違いない。そうして、「楫取家」は現在も家名は続き、東京に5代目の当主が在住している。これが「花燃ゆ」の主人公、「文」の大まかな生涯である。
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