長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

スポンサーサイト
【--/--/-- --:--】 スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


「歴史における経時変化」について
【2014/07/16 21:45】 エッセイ
「德川吉宗」と「田沼意次・松平定信」

江戸中期の「宝暦・明和」期の一代権力者田沼意次は、第八代将軍の徳川吉宗が「将軍継嗣」にあたり、多くのブレーンを引率帯同してきた「その他大勢」の一人の子息(父は田沼意行)であった。しかも「意行」は「足軽」という軽家格の身分であった。したがって、田沼意次の出世ぶりは他に例を見ない。 第九代「家重」・十代「家治」の将軍に仕えた「異能の人物」であった。しかも、その子「田沼意知」も「若年寄」という栄職について、全盛時代を築くかに見えた。
田沼意次


第八代の将軍としての吉宗は、大凡の評価は極めて高い。しかし、神は全てを全能たらしめなかった。吉宗個人は「紀伊和歌山の藩主の四男」として生誕しているから、世襲制の制度下にあっては「良くて小大名」か、さもなくば「部屋住み」として不遇な生涯を辿らなければならない境遇での生誕事情であった。

然し、「運命の歯車」は、何故か吉宗に味方した。彼の兄は、こともあろうに「ことごとく」死去してしまった。はるか後年の「井伊直弼の十四男」の境遇から、「ラッキーカード」を引き当てたのと酷似している。第七代将軍の「徳川家継」が幼時にして生涯を閉じてしまう。このとき「御三家筆頭」の「尾張名古屋」から第八代の将軍の座を射止める絶好のチャンスであったが、それが叶わなかった。後に、「徳川宗春」が「紀伊に優る家柄」を忘れられずに、吉宗に反抗を試みるがすでに時期を逸していた。そのため、大義名分上「将軍」として「徳川吉宗」は、例外として宗春の「意識的な反抗」を見逃すわけには至らなかった。吉宗も辛かったであろう。
徳川吉宗


だが、懸命に「権現様」への回帰を願った吉宗の努力は、一定の「組織的な統治形態」が出来上がっていたことから、「武断的」な統治力が末端まで行き届かなかった。徳川家康が「江戸開府」以来の「力ずく」での絶対的な権力を振ったようにはいかなかったのである。
確かに、かれの努力は「率先垂範」の「将軍専制」のための努力は、個人の努力を遥かに凌駕していたので、残念ながら「創設者」のようにはいかなかった。

このようなことから、家康、秀忠、家光のような時代の統治組織の建設努力は過去の遺産となり、個人の資質や努力で世の中が変化し得ることには及ばない時代が到来していたのであった。現在の官僚組織を想起されたい。総理大臣が「官僚は馬鹿だ!」として、肥大化した組織形態を変容させることが出来なかったではないか。組織と云うものは、一定の経験を経ることによって、「創業の精神」はいつしか忘れられて「自己保身」が「網の様に末端まで張り巡らされてしまう」ものである。

それだけなら、まだしも「遺産」は「本人の願いや願望・目論見」とかけ離れて、「ある一部分」のみが継承されて、結果としては全くことなった形態や現象を来すのである。それは、吉宗が偉大な努力をすればするほど「乖離」した現実を招来してしまう。
吉宗が、「成功者」としての将軍ゆえの「予測出来なかった」歴史の悲劇でもあると思える。
確かに、「徳川吉宗」は、歴代将軍のなかでは「家康」に継ぐ治績をあげたのは間違いない。しかも「率先垂範」という、努力の権化ともいえる行動によって。

だが、時代の時間的経過に中に「経時変化」という、目に見えない変化がある。「創業の精神へ回帰」というが、「家康の覇業確立」への願いは簡単には出来ない。
「死去に臨んで、西国を睨んでの杞憂」を案じながら息を引き取ったといわれるが、その後二百五十年の時間の変化は、国内のみならず、西欧先進諸国における「産業革命」や、それに基づく発展形態としての「資本主義」の実態は、「オランダ風説書」程度で窺い知れるものではなかった。国内統治に専念していればよかった時代は、はるかに過ぎ去っていたのである。
松平定信2

吉宗の精神は、その後の「田沼時代」「寛政の改革」・「天保の改革」で「原点回帰」的に模範とされたが、時間の経過とともに変容する世の中や人間の生き方・考え方は「統治者の願望」とは」乖離が大きくなり、最早、小手先の改革ではどうしようもない程に「病的な時代」へと突き進んでいたのであった。財政問題だけでは解決しえない「病巣」は、奥深く、そして確実に病根をより深くしていたのであった。
「権力は魔物」・「魔性を伴う」というのは、歴史の教訓であることは間違いないだろう。「松平定信」の徳川将軍になり損ねた怨念が、実際以上に「田沼意次」のイメージを悪くしているのかもしれない。
関連記事
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://kinnhase.blog119.fc2.com/tb.php/306-a9440543
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。