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【松下村塾の四天王】たち
【2014/07/28 12:47】 エッセイ
「松下村塾の四天王」

私達は「松下村塾」というと「吉田松陰」を想起するが、実はこの「私塾」は、吉田松陰の叔父「玉木文之進」が、近隣の青少年の為に「天保十三年」、萩市の東郊「松本村」の新道の自宅の一隅にて始めたものである。従って「松陰の松下村塾」は第三代目となるのである。松陰の生家から二百メートルあまりの距離であった。幼時の松陰は兄の梅太郎と連れだって通学した。山鹿流の免許皆伝で「吉田松陰全集」の「玉木正韞(まさかぬ)先生傅」(明治四十一年・吉田庫三)には次のような人物説明がなされている。
松下村塾発祥の地


『百合之助・大助の兄二人と共に貧困の中に生長して耕稼講讀を事とし、経史に通じ、詩文書礼を善くす。人と為り巖正にして、勤儉は兄百合之助(松陰の父)に過ぎ、剛直は大助(正韞の兄)に超ゆ。天保十三年、徒を集めて教授し、同に扁して松下村塾と云ふ。課する所は國史家乗、其の他國體に基き節義に關する書を主とし、經説は宋學を奉じたれども、躬行實践を先務となせり。故に有為の材を輩出し、贈正四位吉田寅次郎・故子爵宍戸璣・故従五位久保斷三・従五位杉民治等はその高足なり。寅次郎藩學に於て山鹿流軍学を教授するに當たり、年幼なるを以てその事を代攝す。寅次郎十一、藩主に謁して兵書を講ず。侯之れを奇なりとし、其の師を問ふ。左右答へて曰く、玉木文之進なりと。』
この様に伝記は語っている。即ち、「兵学者・吉田松陰」を育て、藩主の毛利敬親が驚くほどの、兵書講義を行わしめたのも、玉木文之進そのひとであった。
 
その指導方法たるや、「すさまじい」までのエピソードが言い伝えられている。先ず、五歳頃から『孟子』の手ほどきを受け、内容が難しいために「素読」の時に姿勢が悪いと、往復ビンタが飛んでくる、居眠りをしようものなら「張り板」に縛り付けて立たせたという。
また、ある夏の夜松陰の顔に「蚊」が止まった。幼い松陰は無意識に顔に手をやったら、「烈火の如く怒って張り飛ばした」という。勉強は藩主への務めで「公」だという。「蚊」が頬に止ったから搔いたのは「私」であり、「公私混同」の論理で、藩主に失礼だという。
 この様子を物陰から見ていた母は「寅次郎は逃げればよいのに」と嘆息したという。それでも、泣きわめきながらも、歯を食いしばって叔父の指導に耐え抜いたという剛直な一面を持ち合わせていた松陰であった。

こうした剛直な松陰の一面はまた、親兄弟に対して大変礼儀正しい「孝心」の一面を持ち合わせていた。後に「野山獄」から妹千代宛てに出した書簡は、殆どの松陰伝には紹介される。十九歳で独立師範となるまで五回の親試(藩主への講義)は全て出色で、藩主からの覚えは大変なものであったという。これは、後に玉木文之進が「乃木希典大将」に語った所であるが『松陰の半分も勉強すれば、大したものだ』との逸話が残されている。後に、野山獄での十四カ月に六百十八冊を読破したという事実からも、裏付けられる。 

さて、前置きが長くなったが、この玉木文之進が藩から「業務」を仰せつかって、松下村塾を離れることになり、後任は吉田家の親戚筋に当る久保五郎左衛門久成が継承する。松陰はこの人物を外叔父と親しみを込めて呼んでいる。この塾は玉木時代と少し異なり、寺子屋風であったと言われる。後に松陰が四天王の一人として期待する「吉田稔麿」(足軽身分なので苗字はないのが正しい)が、伊藤利助(博文)とともにここで学んだが、伊藤は成績優秀なれども、吉田稔麿は常に伊藤の上位の成績であったという。伊藤は、此れが悔しくて後々まで「俺は松陰先生には大して世話にはなっていない」と豪語したという。
実は、吉田稔麿に勝てない伊藤は、松陰の寸評では「利助なかなか周旋家になりそうな」程度であった。反面、利麿は初期の松下村塾(安政三年秋に有名な『松下村塾記を書いた頃』)では、大変な松陰の期待を受け「無逸」という親しみを込めた字を送られている。

一方、久坂玄瑞は九州遊学(眼病の治療を兼ねて)で松陰の終生の友人である「宮部鼎蔵」から吉田松陰を紹介される。兄の玄機と共に秀才の誉れを恣にしていた久坂玄瑞であったが、不幸にして十四歳からの二年間に、両親、兄を亡くしてしまう。つまり十五歳で天涯孤独の身となってしまうのであった。彼は幼い頃に「高杉晋作」と共に「吉松淳蔵」の塾で机を並べる間柄であった。高杉の方が一才年長である。
久坂玄瑞


九州遊学を終えて長州に戻った久坂は、早速に松陰に充てて激しい内容の書簡を書く。安政三年は日米和親条約に基づいて『ハリス』が下田に来日し、下田玉泉寺に「星条旗」が翻った年である。ペリーの砲艦外交に不信感を抱いていた玄瑞は、ハリスも同様な油断ならぬ夷狄と思ったのも無理からぬところであろう。第一回目の松陰宛の書簡は「北条時宗が元の使者を斬ったようにハリスを斬るべし」という、激しい内容のものであった。これに対し、松陰は『議論が浮薄で、世の謦咳家を装っているにすぎず、僕はこの種の文章を激しく憎む、議論は己の立場より興せ!』と手厳しいものであった。久坂を松陰へ紹介したのは「土屋䔥海」という、防長で文章第一との評価の高かった人物である。此の時、松陰は久坂への手紙と別に、土屋に充ててこう胸の内を明かしている。すなわち『久坂生、凡ならず。何かと大成あれかしと力を込めて弁駁するなり』と。松陰は、久坂の非凡さを素早く見抜いていたのであった。さらに、この反撃文を受け入れるようであれば、自分の人物眼が確かでないと、言い聞かせながら返信文を書いた。
果せるかな、久坂は猛然と持論を主張してきた。松陰はこの気魄を喜んで読んだのである。そうして、再度の反撃文を書く。「貴方は医者だ、まず医者の立場より論を起せ。僕は囚奴であるから囚奴より論を起す」と。加えて「和親条約を締結してしまった今では、この論は時期を逸している」とも云う。松陰自身、安政元年のペリー再来時に「日本刀の切れ味」をみせてやろうと一時は思いつめたとも云っている。それでも久坂は納得せず、攘夷の実践に意欲を燃やした手紙を三度にわたって書いた。しばらく間をおいて、松陰は一転して久坂の論調を受け入れたかのような返信を書く。それほどまでに云うなら、是非ハリスを斬って貰いたい、しかも手筈や段取りはどうなっているか。久坂の説に賛同して一緒に事を起そうとする者が何人いるか。私は、それをとくと拝見させてもらおう。大至急実践を願いたいと、それまでと百八十度論調を転換させた返信を書く。ここで、遂に久坂はギブアップとなる。
併し、約一年のブランクを措いて、後に松陰の友人である「中谷正亮」の紹介で、松下村塾に吉田松陰を尋ねる。堂々たる体格、豊かな才能、国を愛する思い、何れをとっても不足はない。吉田松陰は、改めて肥後の宮部鼎蔵に感謝したのであった。実は久坂には二十歳年上の玄機がおり、松陰はこの兄の評判は既に聴いていたのであった。勿論、弟の玄瑞の優秀さもそれなりに聴いていたのであった。吉田稔麿に継ぐ英才の入塾に松陰は『してやったり』とほくそ笑んだのに違いない。
高杉晋作25.12.07


これからのち、今度は高杉晋作が入門して来るのであるから、実話とはいえ、松陰の教育熱に一段と拍車がかかったのに違いない。最初、久坂が友人の誼から高杉を誘ったようであるが、最後はやはり久坂と同様『中谷正亮』の引率紹介で松下村塾を訪れたのである。高杉は、大組士二百石という藩の高級官僚を輩出できる毛利家生え抜きの誇り高い家臣の家柄・身分である。しかも一人っ子であり、我儘一杯に育った。藩校である明倫館でも朱子学に飽き足らず、武道に明け暮れていた。剣士を目指せる腕前にまで上達していたようであるが、実は、これは高杉特有の反抗心からの行動であった。学問の才能も秀でており、本人さえその気になって打ち込めば順調に藩官僚の出世を歩んだに違いない。しかし、父親の「小忠太」はことあるごとに「大逸れたことはしてくれるな!」が口癖で、孝心篤い晋作は、この言葉に対してだけは表だって反論できず、鬱憤がくすぶり続けたようである。

塾の仲間に「僕、一人の愚父を持ち候。ために皆と共に行動出来ない境遇を一人かこっている」とのエピソードが残されている。反面、彼はプライドが高く、容易に妥協しない人間性や我儘をも兼ね備えていた。自信満々で中谷正亮と共に松下村塾を尋ね、松陰に「自作の詩」を添削してもらう。ここでもまた、松陰一流の「人物鑑定」をやるのである。「うむ、中々の出来栄えであるが、久坂君には及ばないな」との評価を下したのであった。高杉は人一倍負けん気が強い人物である。高杉は、松陰の「この一言の批評」が気に入らない。已む無く、当日はこれで帰宅するが、以後「吉田松陰・久坂玄瑞」何するものぞ! と闘志を燃やし、勉学に取り組む。松陰にしてみれば「してやったり」である。この二人が松下村塾に入門するのは安政四年である。松陰が久保五郎左衛門から依頼を受けて『松下村塾記』を書いたのが安政三年九月である。この頃、久保と松陰との間に「主宰者」の交代があったものと見られる。高らかに『学は人たる所以を学ぶなり』と謳いあげた建学宣言からおよそ一年が経過して、漸く「吉田松陰の松下村塾」が有能な人材が集まってきたのである。なお、安政四年の暮には、松陰の妹「文」が久坂玄瑞と結婚して、杉家に同居している。
この結婚は、松陰が久坂の人と為りを見込んでのことであったという。来年の大河ドラマの主人公に、この文さん(井上真央)がなるが、さて、どんな内容になるのであろうか。

そして最後に「入江九一」である。この吉田稔麿、久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一の四人が松陰期待の星であった。入江の入塾は安政五年十一月で、入塾者としては最晩年の入塾である。中谷正亮、吉田稔麿を介して入塾を呼びかけていたのであるが、公務(足軽)で江戸に居り、入塾が遅れたものと見られる。併し、松陰の鑑識眼に狂いはなかった。入江は弟の野村和作(明治で内務大臣)が先に入塾しており、江戸からの帰りを待っての入塾であった。しかも、安政五年の無断調印の頃から先鋭化させていた松陰の論調は、遂に「草莽崛起」の実践へと駆り立て、「老中・間部詮勝」暗殺計画を目論んだことから、危険分子として野山再入獄を命ぜられてしまう。松下村塾は安政五年一二月に閉鎖命令が出る。この松陰の再入獄を巡って一悶着が起き、再入獄の大義名分が何であるかとの藩の要人宅への門下生たちの詰問行動となり、一緒に行動した者たちは謹慎命令を受けてしまう。一方、松陰の執念たる「伏見要駕策」の実現を目指した計画は、野村和作の上京となり、これが発覚して入江兄弟は「岩倉獄」に収監されてしまう。しかし、収監中の松陰と入江兄弟は、書簡を通じて意見交換を行うが、最後まで信頼したのが入江九一であった。晩年の松陰の書簡を見ると、松陰が如何に入江を信頼していたかが解かる。
吉田松陰と松下村塾25.3.28


以上、世に有名な『松下村塾の四天王』を書いて見た。四者四様で、それぞれの個性が強くあり「吉田松陰の人物眼」が確かだったのは間違いない。吉田稔麿と入江九一は当時「足軽」という軽格の身分であったが、松蔭死してのち「士分格」に昇格している。松陰の力量もさることながら、この四人の幕末長州に果たした役割は大きい。
残念ながら「この四人」とも「大政奉還」を見ずして命を落としてしまう。「師」が『留魂録』に託して死んで見せた「魂の教育成果」は明治維新と云う、日本史上最大の変革に結実した。彼らの活躍は追贈ながら「正四位」、「従四位」を贈られたのであった。

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