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「私の吉田松陰」講演のイメージ
【2014/11/12 18:16】 エッセイ
昨日、「さいたま新都心・合同庁舎」での連合大学の講座で、「吉田松陰」を講演してきた。持ち時間は90分であった。
質疑応答時間を15分設けるため、実質75分間であったが、語りきれずに5分超過してしまい、最終的には80分間の講座となった。
多くの友人知人が応援に駆け付けてくれた。有難いことである。
今日は、終日休養専念に終始したが、お礼の連絡に追われる。
そのなかで、「私の吉田松陰像」がよかったとの感想を頂いたのでそれを転記する。

これは、私が松陰を語る時の基調を為すものである。短文だが、私の訴えたい松陰像の要約といった内容である。
講演の依頼があった時に、まず、こうした「吉田松陰像」を語りたいと、受諾返信の第一報に使っているものである。
松陰正装画像


「吉田松陰」―明治維新の先覚者―

明治維新は日本の歴史上最大の出来事であった。今から百五十年程前である。
盤石の統治体制を誇った徳川時代も、「江戸開府」以来、二世紀余を経過して幕藩体制は徐々に「ほころび」を来していた。
商品経済(貨幣経済)の浸透は幕府や藩に慢性的な財政危機を増大させ、体制維持は年々窮状の度合いを強めて行った。
加えて、十八世紀半ばから西欧に勃興した資本主義は、「原料と消費」を求めて、次第にアジアへと進出して来た。
日本が内政問題に苦悶していた天保年間、「アヘン戦争」情報が伝えられ「海防」が喫緊の政治課題となった。


吉田松陰は天保元年八月、長州藩の下級武士である杉家の次男に生まれた。
五歳の時、叔父吉田大助の養子となる。吉田家は「山鹿流兵学」を家学としていたため、松陰は山鹿流の軍学者の道を歩むことになる。
類まれな才能と厳しい修業に励んだ松陰は順調に成長し、十九歳で「独立師範」となった。
更なる飛躍を期し、自らの軍学修業と海防への使命感を秘めて鎮西・江戸・東北へと遊学する。

松陰二十四歳の嘉永六年、江戸での再遊学中、米国のペリー艦隊が軍艦四隻を率いて浦賀に来航し日本に開国を迫った。
現地にて艦隊をつぶさに調査した結果、米国の圧倒的な軍事力の「彼我の差」は如何ともしがたく、翌年の再來航を機に国禁を犯して米国視察を企ててペリーの軍艦に乗り込むが拒否される。

以後、松陰は幽囚の身となり、その死まで自由を奪われ続けることになる。
一方、自宅(生家)で始めた「松下村塾」での教育は、やがて幕末維新期に多くの逸材を生み出す。
「立志と実践」をテーマに掲げた松陰の「人間教育」は、多くの若者たちを覚醒させ、彼らをして幕藩体制を突き崩す勢力に育て上げて幕末維新期の政局をリードさせる。

吉田松陰の主宰した塾は、西欧先進諸国の植民地化からの独立を守る新日本への変革者達を「死を以て」育成するという教育事業に結実し、その業績と名声は今もなお燦然と輝き続けている。
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