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「吉田松陰と橋本左内」②
【2015/03/04 12:16】 エッセイ
「吉田松陰」と「橋本左内」②

安政4年12月11日、下田奉行「井上清直」と、幕府目付「岩瀬忠震」が「ハリス」と条約草案の逐条審議を開始して、翌年1月12日に完了させている。
1月15日に幕府は「三家以下諸大名」にハリスとの応接書・ハリス提出の条約草案を回示して意見を徴している。
ここから、条約問題が政治課題としての「手続き」へと歩み出す。

島津斉彬


安政4年11月25日に、「島津斉彬」外交措置の幕府の諮問に一橋慶喜の将軍継嗣推戴を述べる。
29日に、儒者の林あきらが、京都所司代邸にて武家伝奏に米国との通商開始のやむをえぬ事情を述べる。
同じ日に、将軍の大廊下・溜間・大広間詰諸大名召見の下、堀田閣老通商開始のやむを得ぬ事情を演説して意見を徴す。
翌日帝鑑間詰大名にも同様のことを告げる。
川路聖謨・永井尚志水戸藩邸に到り、徳川斉昭・慶篤に条約改訂のやむを得ぬ理由を述べる。
このように、条約勅許なしで調印することに、幕府内部では慎重に慎重を期して説明をしていたのであった。

安政5年1月6日島津斉彬書を近衛忠煕・三条実万に呈し、内勅によって「一橋慶喜」を将軍継嗣と定めることを説く。
島津斉彬は外様大名だが、世子時代から幕閣の重要人物との接触がおおく、また見識力量を認められていた。
越前の松平慶永とともに、一橋慶喜将軍の実現に向けて動き出すのがこの頃からである。
1月24日に「松平慶永」は「橋本左内」に上京を命じている。これは、京都の朝廷への慶喜将軍の実現工作を使命としたものである。このことが、橋本左内を安政の大獄に巻き込む端緒となるのである。
3月13日橋本左内、三国大学と同道して小林良典と会う。小林良典は鷹司家の「家士」で、京都の朝廷工作は、この様な方法をとって進められた


安政5年2月5日に「老中・堀田正睦」は上京、「日米修好通商条約」の「勅許奏請」を行ったが23日に「三家以下諸大名の衆議を徴した上にて直裁あるべし」と勅諚を堀田閣老に下した。

2月15日には井伊の腹心「長野義言」が「徳川斉昭」の「鷹司前関白」への入説と西国外様衆の陰謀とを「宇津木六之丞」に奉じている。宇津木は長野と同様、井伊直弼の側近である。
4月21日松平慶永将軍継嗣に一橋慶喜擁立を堀田閣老に説く。しかし、翌日に井伊直弼が大老に就任するので実現しなかった。井伊直弼は、紀伊徳川から後継を願っていた。「能力より血統」である。水戸の徳川斉昭との確執も、慶喜が敬遠された理由の一つで、両者は仇敵関係にあったのである。慶喜では、井伊が自在に政治を進めにくいとの思いもあったかもしれない。
井伊直弼



安政5年4月22日、幕府は「井伊直弼」を大老に就任させた。5月17日、松平慶永・伊達宗城、山内豊信邸にて三条家家士富田織部より京都情勢を聞く。「三条家」は山内家との婚姻で、縁戚関係にあった。
6月19日日米修好通商条約調印、21日老中連署して米国との条約に調印した胸を進奏(宿継ぎ)。翌日、幕府条約調印を諸大名に告げる。同日一橋慶喜・田安慶頼登城して無断調印を井伊大老に詰る。24日徳川斉昭慶篤父子・徳川慶恕不時登城して無断調印を井伊大老に詰り、松平慶永また登城して将軍継嗣発表の延期を久世閣老に説く。
井伊は6日、間部閣老に上京を命じた。一方、京都朝廷は29日、三家・大老の一人を京都に徴する勅諚を幕府に下す。
幕府は7月5日徳川斉昭に急度慎、徳川慶恕・松平慶永に隠居・急度慎を命じて処罰する。

翌日の安政5年7月6日に徳川家定は亡くなる。8月8日「戊午の密勅水戸藩に降下れ、鵜飼幸吉・日下部伊三次これを捧持東下する。同10日、幕府への勅諚が禁裏付大久保忠寛に下る。水戸に遅れる事二日間だが、これで幕府のメンツが立たないと井伊が反撃を決断するのである。8月16日島津斉彬が軍事調練の後に急死する。このため、斉彬は安政の大獄に巻き込まれずに済んだ。しかし、下工作に使った西郷隆盛は、幕府から追われる身となり、僧月照とともに薩摩に逃走するが藩の答えは月照の薩摩領での滞在(隠匿)を許可せず、錦江湾入水となり西郷は奇跡的に命を取り留める。西郷隆盛と橋本左内は将軍継嗣問題の縁で結ばれるのです。

以上が安政の大獄断行のための、出来事である。松平慶永は無断調印と将軍継嗣問題での動きが解かる。
橋本左内への上京命令も慶永が下している。
橋本左内は京都に在って、将軍継嗣問題に深くかかわり、朝廷(公卿)への政治工作を行う。
大名は急度慎や、慎、隠居等の行政罰だが、陪臣(各藩の家臣)は処刑を含む厳しい処罰となる。

一連の幕府の政策に対して、「反幕府的行動」を厳罰に処する弾圧を加えたのが「安政の大獄」である。
そして特に、安政5年8月8日の水戸藩への「戊午の密勅」が降下されたこと。
しかも、幕府より二日先に降下されている。水戸藩と越前が標的にされているのが解かる。
井伊大老は、政敵であった徳川斉昭がこの密勅降下の為に「京都工作」をしたのだと思い込んだ。(宇津木や長野からの報告で)

そうして、条約調印に失敗した堀田正睦、反井伊の考えを以て批判的だった岩瀬忠震を始めとする「官僚」たちを左遷する。だから幕府内部、水戸藩、越前藩、薩摩藩、尾張藩、宇和島藩、土佐藩は将軍継嗣問題での政治工作または無断調印で不時登城をはじめ、井伊大老を詰った人物を「将軍の命令」ということで有無を言わさずに処罰した。

橋本左内も慶永の信頼が厚かったばかりに、弾圧の対象となってしまった。
吉田松陰については全くこれらと関係がなく、京都の尊攘派の志士達を取り調べていた「捜査線上」から不逞の輩として浮上して来たものであった。
安政5年12月12日に、長野義言が宇津木六之丞へ宛てた報告に「梁川星巌方へ参集いたし頼三樹三郎・池内陶所・梅田雲濱は反逆の四天王と自称し、吉田松陰は悪謀の働き抜群」となっている。
吉田松陰


橋本左内も吉田松陰も、ある意味では「戊午の密勅」降下がなければどうなっていただろうか。
安政の大獄の反動として、翌万延元年三月三日の「桜田門外の変」を引き起こしてしまい、幕府の威信低下を晒すことになった。ここから、幕府は「公武合体政策」路線を推し進め、その象徴として「和宮降嫁」となる。
さらに、文久二年一月の「坂下門外の変」によって、幕府は急坂を転げるように衰退の一途をたどる。
そうして、幕府は宥和策として「安政の大獄」の処罰者の名誉回復をすすめたのであった。
この頃から尊王攘夷運動という大和民族の生き残りを願望する運動が最盛期を迎えるのである。
吉田松陰も名誉回復が為って、世田谷の若林(太夫山という、毛利家の緊急避難所)に埋葬場所が移される。
このときに、高杉晋作が上野寛永寺境内の「将軍専用」の橋を堂々と通過した伝説が伝えられることになったのである。
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