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「福堂策」上
【2015/04/05 14:54】 エッセイ
福堂策上 (野山雑著)全集第二巻  

元魏(げんぎ)の孝文、罪人を久しく獄に繋ぎ、その困苦に因りて善思(ぜんし)を生ぜ染む。」因って云はく、「智者は囹圄(れいご)を以て福堂とす」と。此の説遽(にわ)かに聞けば理あるが如し。諸生紙上の論、多く左袒(さたん)する所なり余獄に在ること久し。親しく囚徒の情態を観察するに、久しく獄に在りて惡述を工(たく)む者ありて善思を生ずる者を見ず。然らば滞囚(たいしゅう)は決して善治に非ず。故に曰く、「小人閑居して不善を為す」と、誠なるかな。
但し是れは獄中教へなき者を以て云ふのみ。若し教へある時は何ぞ其れ善思を生ぜざるを憂へんや。曾て米(め)利(り)幹(けん)の獄制を見るに、往昔は一たび獄に入れば、多くはその悪益々甚だしかりしが、近時は善書ありて教導する故に、獄に入る時は更に転じて善人になると云ふ。是くの如くにして始めて福堂と謂ふべし。余是に於て一策を画す。世道(せどう)に志ある者、幸に熟思せよ。

150405野山獄小


一、 新に一大牢獄を営し、諸士罪ありて遠島せらるべき者、及び親類始末に逢いて遠島せらるべき者は、先づ悉(ことごと)く茲(ここ)に入る。内、志あり學ある者一人を長とす。親類始末のことは余別に論ありて筆録とす。此の策は只今の有様に就いて云ふのみ。
一、 三年を一限(いちげん)とす。凡そその囚徒、皆出牢を許す。但し罪悪改むることなき者は、更に三年を滞(とどこお)らす。遂に改心なき者にして後、庶人に降(くだ)し遠島に棄つ。尤も兇頑甚だしき者は、三年の限りに至るを待たず、是れを遠島に棄つ。是れ皆獄長の建白を主とし、更に検覈(けんかく)を加ふ。
一、 長以下、数人の官員を設けざることを得ず。是れ獄長の建白に任ずべし。総べて獄中の事は長に委任し。長私曲あり、或いは獄中治まらざる時は専ら長を責む。
一、 獄中にては、読書・写字・諸種の学芸等を以て業とす。
一、 番人、獄中の人数多少に応じ、五六名を設けざるを得ず。而して其の怠惰放肆(ほうし)の風を厳禁し、方正謹飭(きんちょく)の者を用ふべし。番人は組の者を用ひ、番人の長は士を用ふべし。
一、 飲食の事は郡夫(ぐんぷ)に命じ、別に日々監(かん)司(し)後れ付の類を出し監(かん)せしむべし。獄中銭鈔(せんしょう)を貯へ、恣(ほしいまま)に物を買ふを厳禁し、各人の仕送り銀は番人中一人を定め、是れを司(つかさ)らしむ。即ち今野山獄の肝煎(きもいり)の如し。
一、 獄中断じて酒を用ふることを許さず。酒は損ありて益なし。此の不易の論あり、茲に贅(ぜい)せず。
一、 隔日或は両三日隔てて、御徒士(おかち)目付(めつけ)を回し、月に両三度は御目付の回りもあるべし。回りの時は獄中の陳ずる所を詳聴(しょうちょう)すべきは勿論なり。
一、 医者は毎月三四度回すべし。若し急病あれば願出(ねがいい)で次第、医をして来診せしむべし。付人(つきびと)の事、湯水の事、江戸獄中の制に倣(なら)ふを可なりとす。
一、 獄中画一の制を作り、板に書して楣(はり)に掲(かか)ぐべし。
右に論列(ろんれつ)する所に従って一牢獄を営せば、其の福堂たるも亦大なり。余幸にして格そとの仁恩に遇ひて、萬死(ばんし)の誅(ちゅう)を減ずることを得。其の身を岸獄(がんごく)に終ふる、固(もと)より自ら安んじ自ら分とする所なり。然れども國恩の大、未だ涓(けん)埃(あい)を報ずるを得ず。深く忸怩(じくじ)する所なり。
『吉田家本・吉田松陰座像』 


因りて願ふ、若し新獄の長となることを得ば、或は微力を伸(の)べて万一を庶畿(しょき)することを得ん。但し囚中、其の才学余に過ぐる者あらば、余も亦敢て妄(みだ)りに其の前に居らざるなり。余野山獄に来たりてより、日々書を読み文を作り、傍ら忠孝節義を以て同囚と相(あい)切磋(せっさ)することを得、獄中駸々乎(しんしんこ)として化(か)に向ふの勢いあるを覚ゆ。
是れに因りて知る、福堂も亦難からざることを。且つ人賢愚(けんぐ)ありと雖(いえど)も各々(おのおの)一、二の才能なきはなし、湊合(そうごう)して大成する時は必ず全備(ぜんび)する所あらん。是れ亦年来人を閲して実験するところなり。人物を遺棄(いき)せざるの要術(ようじゅつ)、是れより外復(ま)たあることなし。当今動(やや)もすれば人を遠島に処す。余精(くわ)しく在島の容子(ようす)を聞くに、降(くだ)して庶人となすよりも甚だし、全く百姓の奴隷となるなり。堂々たる士人をして此の極に至らしむること、豈に匆々(そうそう)にすべけんや。故に余は先づ獄に下し、必ず已(や)むことを得ざるに及んで、然る後遠島に処せんと欲す。是れ忠(ちゅう)厚(こう)の至りなり。但し放縦(ほうしょう)は人情の安(やす)んずる所にして、厳(げん)整(せい)は其の厭(いと)ふ所なれば、右の如く制を定むる時は必ず悦ばざる者衆(おお)し。然れども、是れに非ざれば福堂の福を成すに足らず。方今(いま)庶政(しょせい)維(こ)れ新たに、百弊革(あらた)めざるはなし。独り囚獄の政に於いて、未だ至らざるものあるを覚ゆ。故に余故(ことさら)に私(ひそか)に策すること此(かく)の如し。然れども是れ独り士人の獄法を論ずるのみ。庶人の獄に至りては更に定論あり。今未だ贅(ぜい)するに暇(いとま)あらず。

安政乙卯(いっぽう)六月朔(さく)丙(へい)夜(や)、是れを野山獄北第一房に於いて書す。二十一回猛虎
 松陰在野山獄(のやまごく)


【解説】
有名な「吉田松陰」の「福堂策を転記してみた。野山獄に収監されて、先ず気付いたのは出獄の当てのない人達の荒んだ心の姿であった。それでこれが書かれ、性善説に基いて「長所」を引き出す事であった。それには、一緒に勉強することで、俳諧、書道、孟子を互に学び合うことであった。しばらくすると、獄風は一変して「福堂」となった。松陰は『孟子』の講義を行ったが、半ばで免獄となり「杉家」に帰った。然し、「幽囚の身」であることに変わりはない。
時間を持て余す松陰を慰める意味で、『孟子』の講義を完了させる親族の暖かい心であった。ここが「杉家の好学家風」で、此のことが近隣の青少年の教えを乞う者が出てきた。これが後に「松陰主宰の松下村塾」となっていくのである。
「福堂策」は上・下二巻よりなり。「野山雜著」に収められている。「福堂策」の(上)が書かれたのは安政二年六月である。松陰が野山獄に収監されてから既に半歳が過ぎており、この間に野山獄の獄風は一変し、獄があたかも学習の場の感を呈するまでになっていた。「福堂策」は、こうした自らの体験、つまり獄は福堂に変え得ることが出来るのは、人間の性は本来善であり、たとえ罪を犯した者でも教育することによって善導できるからだと考える。従って、「福堂策」は、単に松陰の獄舎論、刑罰論と云うだけではなく、彼の人間観を具体的な事柄の中で示したものとして貴重である。本書は「福堂策」の(上)が書かれてから三ヶ月後の九月十一日に(下)が認められている。(下)で注目されることは、人間が人間らしく生きていくためには「自ら淬励(さいれい)する心」(つとめ励む)、つまり自発性あるいは生きがい感を失ってはならないという指摘である。松陰が収監された当初の同囚たちは「わが徒終にまさにここに死すべきのみ、復び天日を見るを得ざるなり」という状況で生きがいを見失っていた。それが、いまや生きがいを見出し、獄風は一変した。だから松陰のこの指摘は、実感に裏付けられた説得力をもっている。また、一事の罪をもってその人間の全人格を否定してはならないとする人間観も注目すべきだろう。

【語訳】
二十一回猛虎 = 松陰の別号。
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