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『久坂玄瑞の吉田松陰への挑戦的手紙』
【2015/04/15 12:38】 エッセイ
「久坂玄瑞から吉田松陰への最初の手紙」

安政三年五月下旬
安政三年春、久坂は眼病(すがめ)の治療を兼ねて、九州遊学を果したのである。途中、肥後熊本に立ち寄り、松陰の生涯の友となった「宮部鼎蔵」に出会う。宮部は、松陰と同じ「山鹿流軍学師範」である。松陰は嘉永三年秋に「宮部鼎蔵」と出会い、意気投合し終生敬慕しあった「同じ志」を持っていた人物である。その宮部が、久坂玄瑞に向って、「態々肥後まで遊学には及ばない。お国には吉田松陰という傑物が居るではないか? 吉田松陰の下で学ぶべきである」。と推薦を貰うが、この時久坂は吉田松陰が、何者であるかを知らない。名前を少し聞いたことがある程度の認識であった。九州遊学を終えて萩に帰国するや、知人の土屋䔥海の勧めもあって『義卿吉田君案下に奉呈す』という持論を書き綴った激しい内容の手紙を書く。以下は、『久坂玄瑞全集』に収載されている「原文」です。

久坂玄瑞


『久坂誠玄瑞再拜 謹白二十一回猛士義卿吉田君座前、今茲春遊鎮西入肥後、而訪宮部生、談及吾兄事、生賞讃吾兄娓々不已、誠欽慕非一日、且聞其言欽慕益不可堪也、乃将修短簡以陳其鄙衷而誠不誠吾兄、々々固不識誠也、無半面之識而乃欲修短簡、自知不免其鶻突亦矣、然誠雖不識其面而識兄之慷慨気節天下之豪傑之士矣、則不可謂之不識、而吾兄獨不識誠焉爾、誠鈍駑閽昧無足言者、而居皇國之土食 皇國之粟則 皇國之民也、夫方今 皇國勢何如也、綱紀日弛、士風日頽、而洋夷日跳梁、屢乞互市、其意必在伺我釁伸其所欲也、而廟議以為不若暫許互市、而巌兵備於其隙、殊不知許互市則天下之人益
狎其無事、而益般楽怠傲也、兵備終不可巌矣、昔者弘安之役、元使屢至、我以其書辞不禮遂斬其使、元師十萬来寇、精兵以當之、彼一敗蕩然生帰者僅三人、元不復窺我邊、嗚呼我有男子國之稱不冝哉、儻使方今如弘安、彼謂互市、我對日、國法有禁、彼強之則冝斬其使、天下之人皆謂彼必來寇不可般楽也、不可怠傲也、綱紀必張士風必(以下缼)』

これを「書き下し」にして、文意が解かるように書き換えて見ます。『武田勘治著・久坂玄瑞より』
「義卿」は松陰の「字です。「君」は今日では同輩以下に用いるが、元来は「ご主人様」とでもいう意味の「尊称」であります。「案下」は手紙の脇付けに用いることば。「机下」。
『吉田家本・吉田松陰座像』


久坂誠玄瑞、再拜し謹んで二十一回猛士義卿吉田君の座前に白す。今茲春、鎮西に遊び、肥後に入りて宮部生を訪れ、談吾兄の事に及ぶ。生、吾兄を賞賛すること娓々(びび)として止まず。誠の欽慕せること一日に非ず、且つ其の言を聞きて、欽慕益々堪えるべからざるなり。乃ちまさに短簡を修し以て鄙中(ひちゅう)を陳べんとす。而して誠は吾兄を識らず、吾兄も固より誠を識らざるなり。半面の識なくして乃ち短簡を修せんと欲す、自らその鶻突(こつとつ)を免れざるを知る。然れども、誠その面を識らず。と雖も、しかし吾兄の慷慨気節にして天下の豪傑の士たることを識る。之を識らずとは謂うべからず。而して吾兄獨り誠を識られざることしかり。

 誠や鈍駑閽昧(どんとこんまい)、言うに足るものなし。而れども、皇國にの土に居り、皇國の粟を食む、即ち皇國の民なり。それ方今、皇國の勢如何や。綱紀日に弛み、士風日に頽(くず)れ、而して洋夷日に跳梁し、屢々互市(通商)を乞う、その意、必ず我が釁(きん・隙)を窺いてその欲するところを伸すに在るなり。而して廟議は、暫く互市を許すを以てし、その隙に兵備を厳にするに若かずとなす。殊に知らず、互市を許さば即ち天下の人益々その無事に狎れて益々般楽怠傲(はんらくたいごう)し、兵備ついに厳なるばからざることを。

昔、弘安の役に、元使屢々我れに至る。その書辭禮(じれい)ならざるを以て、遂にその使を斬れり。元の師十萬来寇するや、精兵を以て之に當り、彼れ一敗蕩然(とうぜん)として生帰するもの僅に三人。元また我が邊を窺わず。ああ我れに男子國の稱ある、うべならずや。もし方今をして弘安の如からしむれば、彼れ互市を謂はば我れ応えて日わん、國法の禁ずるありと。彼これを強いば即ち宜しくその使を斬るべあい。天下の人皆言わん、彼れ必ず来寇す、般楽すべからざるなり怠傲すべからざるなりと、綱紀必ず張り、士風必ず・・・・・・(以下缺損)
150415フビライ150415ハリス




【語訳】
娓々=話が長々と続いて飽きない。 鄙中=見下げる。とるにたらない。
鶻突=あいまいににしておく。 慷慨=社会の不義や不正を憤る。 気節=気骨。
鈍駑=おろか。頑な。 跳梁=はねまわる。 綱紀=規律。統べる。
釁=隙、仲違い。ちぬる。 般楽=大いに楽しむ。 蕩然=あとかたのないさま。
辭禮=禮を謂う。怠傲=なまけてあなどる。

【意訳】
私は久坂誠です。今春に肥後で宮部鼎蔵と話し、益々貴兄を慕う思いが募っている。私は貴兄と面識ないが書簡にて私の思いを書きます。宮部は貴兄のことを、世を憂う天下の豪傑とのことだが貴兄も私を知らない。私は鈍才ながら日本に生れ、育った日本人としての自覚と矜持を持っている。現状の日本は太平に慣れ、綱紀は弛緩している。そこに西欧が傲岸不遜な態度で、通商を求めてきたが、内心は侵略したいようだ。幕府は要求を受け入れ、一方で兵備を厳しく鍛錬しなくてはならぬというが、堕落した武士ではこれを迎え討つ程の奮発は出来ないだろう。鎌倉期に元の使者が何度か来た。礼節なき使者を切り捨てたという。弘安の役で元の大軍が、我が国を攻め込んできたが、我が国の大勝利で元の生還者は僅かだった。洋夷の使者(ハリス)の傲岸な通商要求も、殺害して日本男児の心意気を見せれば、安楽にふける堕落した武士たち(日本人)も、決死の覚悟で奮い立つに違いないと思うがどうだろうか、心もとない次第だ。


この勇ましい久坂玄瑞からの手紙に対して、吉田松陰はこっぴどく反論した返信を書いたが、実は、久坂に対して「吉田松陰に手紙を書くように!」とススメたのが、松陰の友人である「土屋䔥海」であった。彼は、萩藩の陪臣ながら、秀才の誉れを恣にした人物で「防長で文章第一」と言われていた。勤皇僧として名高い「月性」(特に『立志の詩』が有名)と同じ安芸の坂井虎山の塾で学んでおり、吉田松陰⇒月性⇒土屋䔥海⇒久坂玄瑞、という人脈関係であった。但し、此の時点では、松陰は久坂玄瑞は面識がなく、若い、元気な秀才との風聞は聞いていたようである。玄瑞の兄の「久坂玄機」とは、相知る中で交遊があったが、久坂玄機の秀才ぶりは萩藩中でも知る人ぞ知るという存在で、藩主の信頼もあった人物です。だが、惜しいかな、国防、海防の意見書や蘭書の翻訳に日夜心血を注いでいるさなかに、急死してしまう。玄瑞より二十歳年上であった。その有名な久坂玄機の弟・玄瑞も兄の死後「勤皇僧・月性」に学んでいたという関係である。だから、後年、松陰の妹の「杉文」と結婚したことを月性は大変に喜んだのである。実は。この久坂玄瑞からの第一信を受け取った松陰は、返信の文面とは裏腹に久坂の人物を高く評価していたのであった。その、松陰が土屋䔥海に宛てた打ち明け話の書簡を下記しておきます。即ち松陰は「久坂の人物だめし」をしていたのである。流石の吉田松陰ですね。

「土屋䔥海宛」書簡
安政三年六月三日松陰在萩松本、土屋在萩

䔥海學兄
坂生志氣凡ならず、何卒大成致せかしと存じ、力を極めて辯駁致し候間、是れにて一激して大擧來寇の勢いあらば、僕が本望之れに過ぎず候。若し面従腹誹の人ならば、僕が辯駁は人を知らずして言を失ふといふべし。此の意兄以て如何と為す、如何と為す。
三日
松陰生

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