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『吉田松陰とペリー来航』
【2015/04/18 13:08】 エッセイ
『吉田松陰とペリー来航』①

吉田松陰は嘉永三年に『鎮西遊学』、翌年『江戸遊学』と、長州藩の大政治家にして、大先輩である「村田清風」翁の持論であった『四峠の論』の実践を果し、見聞を広める。
この『四峠の論』というのは、次のような意味を持っている。即ち、『萩城下』は北を日本海に向い、阿武川が海にながれ込む直前に、橋本川と松本川に分流し、この二つの川に挟まれてできた三角州である。その西北に萩城が築かれている。お城の近くに高級家臣団が在住、遠くなるにしたがって下級家臣や商家が在住、という城下町である。この毛利氏藩領の長州(防長二州)は、三方を海に接している事から、海防の充実が喫緊の課題となっていて、村田清風は、常にこの課題を解決すべく、日夜工夫を凝らしていたのであった。それは、江戸に立地する幕府が、海上封鎖を極端に恐れていたのと同様、【海防】は、日本と言う、島国の地勢学的見地からの宿命的な課題であった。丁度英国が「海軍の充実」によってこの課題を克服したのに似ている。


吉田松陰は、お城からほど遠くないところにあった「川島町」に先祖代々が居住していたが、文化年間に城下町の大火があって、やむなく、転々と居宅を転居した末に、松本川を越えた萩の東郊の松本村の・団護岩に生誕した。いはま、「吉田松陰の生誕地」として、たてものはないが、公園風になって居宅の遺跡となっている。正面に日本海を望める風光明媚なところである。門下生だった山県有朋の揮毫になる大きな石碑が立っている。この萩から、藩の外へ修業に出掛けるのには「峠」を越えて行かなければならないが、この峠は四つの峠の何れかを越えて藩外へ出なければならない。ここから「四峠の論」がいわれたという。

松陰正装画像


ところが「吉田松陰研究書」でこれに触れたものがない。不思議に思って調べることにして、長門市に「村田清風記念館」があるので、そこへ直接電話で問い合わせた結果、書物としては書かれたものがないということが解かった。「口碑」(こうひ・口伝えの意)といって、萩では多くの人達に語り継がれ、大半の方が四峠論を知っているそうだ。こうして、鎮西遊学、江戸遊学を果し、懸命に修業に励むことになった。鎮西では平戸の葉山佐内に、江戸では佐久間象山について学ぶことになる。この二人から多くの修業機会を得て、見識が高まるのです。

松陰には【師】と呼ぶ人物が二人いる。一人は「山鹿素行」で、松陰の修業する家学の山鹿流の開祖である。そして松陰は素行を【先師】と呼んでいた。もう一人は「佐久間象山」で、世代的には松陰より二回りほど年上の先輩に當たり、松陰は【師】と呼んでいた。つまり、山鹿流軍学者としての創設者を先師、松陰の先輩で大学者として慕いながら、入門した佐久間象山が師なのである。佐久間は、信州松代藩の人で、時の藩主を眞田幸貫といい、その人は松平定信を父親に持つ、徳川家の名門の出身である。そうして外様藩であるが天保の頃は、水野忠邦の下で「老中」を務め、「海防掛」を担当していた。そのため家臣の佐久間象山の見識を活用すべく、「顧問」として海防研究させた。

その結果、纏められて上書したのが『海防八策』であった。此の建白書が老中に提出されたのが「天保十三年」である。当時は西欧先進国が通商や開港を求めて日本の近海に頻繁に出没していたころで、幕府も「文政の打ち払い令」をやむなく緩和策の「薪水給与令」に変更せざるを得なくされたのである。幕府は、12代将軍の徳川家慶が家斉に代わって、「水野忠邦」が天保の改革大号令を発して、財政再建を始めとする諸施策を打ち出したが、徳川の体制が既に重症患者の如く小手先の対応策では間に合わない程に、弛緩して頽廃的な世相の様相を来していた。株仲間の解散命令、上知令とも効果がないどころか「大名」の反対に在って発令をひっこめざるを得ない状況で幕府の威信は往時の力を失っていた。

そして、オランダ国王からの「開国勧告書」が出され、「米国の水師提督・ビッドル」が浦賀に来航して、幕府に開国通商を迫った。一方長州藩では、村田清風の号令で「天保の改革」が進行しつつあった。幕府の改革が失敗したのに比して、長州は下関の「越荷方」による藩営の商社が北前船の持ち込む、産物を保管し、販売する商業活動や倹約、武士の債務を藩が肩代わりして、長期返済方式を採り入れて徐々に経済政策が功を奏していた。吉田松陰の叔父である「玉木文之進」が自宅に「松下村塾」を開き、近隣の青少年の教育に当たっていた。教育は人材養成の長期的視野に立ったもので、次第に教育熱が高まりつつあった。
150418村田清風 

松陰が、鎮西遊学、江戸遊学を連続して果たし、猛勉強に取り組んでいた頃である。江戸では日本の行末を案じる心ある若者が諸国から集まっていた。「京橋桶町」の鳥山新三郎の経営する「蒼龍軒」は、こうした若者たちの梁山泊の観を呈していた。そこに松陰も参加し、諸国からの上京修業者達と厚い議論を交わしていた。そんな矢先に、松陰は薩摩出身の肝付七之丞から、東北遊学の経験談を聞く。津軽にロシア船が南下して、津軽海峡に我が物顔で頻繁に出没し、あげく上陸して狼藉を働き、地元住民と諍いをしばしば起しているという。早速、松陰は肥後で出会った山鹿流の先輩の「宮部鼎蔵」と共に海防視察に出掛ける事にする。江戸藩邸に相談すると、内諾は簡単に出た。そして、萩の兄に、旅費を送金するよう準備に入り、十二月十五日に高輪の「泉岳寺」集合の約束となった。

しかし、他国(他藩)領地を通過するには身分証明者である「過所手形」が必要で、これは藩主の允恭が必要であるが、此の発行がなされてないことに気付いた松陰は、すぐ藩邸に発行を掛けあうが、藩主がお国入りしているとのことで、出発を延期せよという。だが松陰は既に出発日を約束してしまった。そこへ江幡五郎という南部人が同行したいと頼みこんできた。江幡は盛岡の兄が政争に巻き込まれて、不慮の死をとげたことへの復讐をしたいという事情を打ち明けて、松陰達は応援すべく彼の申し出を受け入れた。そして藩邸が過所手形を発行しないなら、手形無しで実行する意思を固める。これは、当時に在っては「藩士として重罪」にあたる行為となって、場合によっては打ち首もありうる危険な行為であった。つまり、殿様(藩主)を裏切る「主従関係」を家臣から断ち切ってしまう大変なことなのだ。そうして、一日前に「稽古切手」という、藩邸の外出許可証のみで出奔してしまった。これでは関所は通れない。
歴史に学ぶ


 まず、水戸街道の裏道を、松野他三郎という変名を使って北上する。仲間たちより先に出発して水戸に着く。此処は徳川御三家の一つである水戸藩領である。此処に一か月滞在する。目的は藤田東湖に会うためだが、あいにく彼は謹慎中なので他国人と面会できない。やむなく、会澤正志斎と6回の面談機会をもてた。松陰より50歳近くの年長者で、「新論」の著者であり、水戸学の権威の一人であった。そこで、日本の成り立ち等の古代史を学ぶ。江戸で「御藩の人は日本の成り立ちに暗い」と他藩の者から指摘されて冷や汗をかいた経験を持つ松陰であった。それが、忙しくて勉強時間が取れずに困っていたのであったが、偶然に水戸学の大家に直接教えを受ける機会を得たのであった。しかも、勉強が住むと夕餉も出してくれ、お酒も出してくれる歓迎ぶりに松陰は感激の記録を残している。「水府の人、概ね親切なり」と。そして一か月後に出発し、奥州の玄関口である白河で同行の江幡と別れ、松陰と宮部は会津若松に向う。此処でも歓迎を受けて、藩外秘までも教えてもらう。当時は西の「明倫館」、東の「日新館」といわれた藩校の一つを見学させてくれ、軍事機密までも教えてくれた。後年、文久から慶應期にかけて長州と会津は天敵の関係になるが、この当時には蜜月時代ともいえる兩藩の親密な関係にあったのである。

 そして新潟(越後・蒲原)に雪をかき分けながら出る。佐渡金山を見学して、北上し「竜飛崎」から津軽海峡をはさんで遥かに蝦夷の大地が望めた。松陰の眼には、東北地方の各藩の民生視察もあったが、それは芳しいものではなかった。そして、青森八戸、仙台とまわって再び会津に寄り、鬼怒川、日光を経て足利へ出て「足利学校」を見学、館林近辺から利根川を下り春の江戸に戻る。此処で、「過所問題」が起り、藩の判断を待つべく萩にて待罪の身となる。この間約半年。水戸で学んだ「後期水戸学」の更なる勉学に勤しむ。これは『睡餘事録』という松陰自筆の記録が残されていて、日本書紀、続日本紀を立て続けに七十冊も読破したことが綴られ、有名なことばが書かれる。即ち『身皇国に生れて皇国の皇国たる所以を知らずんば、何を以て天地に立たん』である。日本人の誇りをこの間に、身に着けたのであった。そうして藩が脱藩の裁決を下す。厳しい処分であった。「吉田家取り潰し・家禄召し上げ・杉百合之助の育(はぐくみ)」とする、というものであった。浪人となってしまったのだが、ここで藩主の毛利敬親が粋な計らいをみせるのである。「向こう十年間の諸国遊歴」を許可してくれ、打ち首どころか、大変な恩情である。実は、松陰が桜田の長州藩邸を出奔したことを聴いた毛利敬親は、『国の宝を失った!』と嘆いたのであった。そこから、恩情の裁決が出たのである。幕末、家臣に自由に論議させ、その結論をもって藩主に相談すると、決まって『そうせい』といったことから、ついたあだ名は「そうせい侯」であった。一面、名君であった。


150418ペリー 


 そうして、再び江戸に向い京阪の学者達と時局を語り、半年後に江戸到着。そして、母からの贈り物を預かってきていた「きびこ」を、母、滝の実兄である竹院和尚(瑞泉寺住職)に届けたのである。和尚(松陰は上人と呼称)は喜び、夜ごと語り合い、江の島を案内してくれた。この竹院和尚は、松陰の脱藩事情を知りつつ、寛容な態度で松陰の人生や人となりを好感をもって暖かく見守っていたのであった。そうして、南禅寺の住職という地位は、曹洞宗の住職としては、最高の栄誉の地位なのである。

そして、松陰が江戸に戻った直後に「ペリー」が突如、浦賀に来航して開国を迫ったのであった。長崎への回航指示をする浦賀奉行の命令を無視して、場合によっては一戦も辞さないという高圧的な態度であった。已む無く、幕府はペリーの持参してきた「大統領親書」を、久里浜に急ごしらえの施設を造り、表向きは冷静に、礼節を尽くす形でうけとり、ぺりーを満足させたのであった。だが、これは時間稼ぎが幕府の本心で、具体的な対応策を持ちあわていなかった。こうして威かしを交えた外交を「砲艦外交」という。だから強引に「大統領親書」を手渡し、返事は来年に受け取り再度来航するからと、言い残して十日で退去してしまった。この日を境に日本は幕末の動乱を迎えることになります。

再度の来航までに、国策の樹立を急いだ幕府は、それまでの「独占していた外交特権を自ら放棄し」、それまで政治向きに初便の機会を与えられなかった「外様大名」や御家人、陪臣(各藩の家臣)に今後の対策意見を求め、外様大名に幕府政治への容喙の契機を作り出してしまい、ここから「西南雄藩」の台頭が顕著になってくるのである。そうして、意見徴収の結果、八百通ほどの「意見書・建白書」が提出され、数多くのなかで出色だったのが「勝海舟」の意見書で、ここから勝海舟の大躍進のきっかけをつかむのです。これを評価して、老中の下に届ける判断をしたのが、幕閣の進歩派・革新派と言われた高級旗本の「大久保忠寛」(後の一翁)であった。
此の続きは、次回にします。
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