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『吉田松陰とペリー来航』②
【2015/04/19 23:41】 エッセイ
『吉田松陰とペリー来航』②

嘉永六年六月、吉田松陰は萩の母親(たき)から、実兄の竹院和尚への手土産を、伯父のいる「鎌倉・瑞泉寺」に届けるために訪問した。
伯父は、妹からの「手作り」のお土産を半年もかかって届けた松陰と妹(たき)に感謝しつつ、松陰を歓待した。
「故郷の味」がことのほか、美味しかったようで持参した松陰と、夜ごと語り明かした末に「江の島」を松陰(竹院和尚からは甥にあたる)伴って、懐かしい語り合いをした。

『吉田家本・吉田松陰座像』


そうして吉田松陰は、お役目を果して江戸にもどった。
ところがそれに相前後して「米国太平洋艦隊」の司令長官、M・Cペリーが浦賀に来航した。急を聞きつけて、師の佐久間象山の下へ駆けつけたところ、既に象山は門下生を引き連れて浦賀に向って出発していて留守であった。
松陰は大急ぎで桜田の「藩邸」に飛んで行き、「瀬能吉次郎宛」に手紙を書き残して浦賀に向った。
松陰の逸る気持ちそのままに書かれた手紙が『吉田松陰全集』第七巻に収載されている。そこには次のようは内容が記されていた。

『瀬能樣、 浦賀へ異船來たる由に付き、私只今より夜船にて参り申し候。陸海共に路留にも相成るべくやの風聞にて、心甚だ急ぎ飛ぶが如し。六月四日 御國へもし飛脚参り候はば、此の書直樣さしだし頼み奉り候。左候へば、僕壮健にて英気勃勃の様子も相分るべく候。事急ぎ別に手紙を認むること能はず。 吉田』 と書かれているのだ。
吉田松陰が、「クニ を護る事を任務とする 兵学者」であったことを想起願いたい。

当時の「クニ =藩(領国)」であったが、松陰の頭の中は「日本国=大和民族」であった。
西欧先進諸国からの「侵略の端緒」と受け取ったのである。
それは、松陰が鎮西遊学で必死に学んだ「アヘン戦争」の日本版と受け止めたからであった。
ここが、普通の国民と全く異なる所である。吉田松陰の「危機感」は、日本全体の「危機」という受け止め方なのである。
ですから、松陰を評して「日本を発見した人物」などと研究者から呼称されるのである。
150418ペリー


近代国家の概念が殆どなかった、当時の日本において「日本全国」への危機を鳴らした最初の日本人の一人であることは間違いない。師の佐久間象山も同様の受け止め方であったに違いない。
事実、象山は、天保年間に建白書を差し出した「海防八策」のなかで、西欧の軍事力に相当する国防体制の整備が急務であると「幕府に建白書」を提出していたのであった。
だが、その建白書を「決死の思いで」受け止める人物が「幕府閣僚」には誰一人としていなかった。「川路聖謨」のみ、検討に値するという受け止め方をしたにすぎなかった。
川路は、当時の幕閣においては最も先進性に富んだ見識、世界観を持っていた数少ない人物であった。

しかし結果的には、『幕府閣僚』の総意としては、積極的には取り上げられなかった。
このことがあったから、佐久間象山は『だから、私の建白書の通りに軍艦を購入して、国防の軍備を整備しなければいけない』と、口をすっぱくして申上げていたのにいまさら大慌てしたって間に合わない。
『だから、いわんこっちゃない』と、象山の意見書を実行しない幕府の態度に怒りを発していたのである。
そうしたところへ吉田松陰が駆け付けたのであった。
『おう! 吉田君か! よく来た!』と切歯扼腕の気持ちだった佐久間象山にとって、百万の味方が駆けつけてくれたような思いであったのに違いない。
佐久間は、幕府への不信感と怒りで耐えられない思いであったのです。

大きな黒塗りの「軍艦」を目の前にして、浦賀奉行所配下の「小舟」では到底太刀打ちできない。
ペリーは「米国國家の特使」としてきているので、しかるべき対等レベルの人物以外は応接しないと言っている。
そうして、その時の「与力」であった「中島三郎助」の機転で、敵艦に乗船することが出来た。
そこで判明したことは「米国大統領の親書」を携えて来ているという。浦賀奉行所の「長崎回航指示」は受け入れない、日本の国法がどうであれ私は米国代表できているのである。
よって、しかるべき地位の人物しか応対しない。
それで「破談になって戦争」になれば戦おう。戦いは100%我が方の勝利になる。
それでも戦うなら、戦闘も辞さないという高圧的な態度であった。
150420老中阿部正弘


このやりとりに数日を要した。浦賀奉行の戸田氏栄は、江戸の老中に判断を仰ぐべく「急使」を数度派遣してペリーの要求をどう裁くかで大忙しである。
気の早い役人は殺されることを予見して、死後がみっともないようにと身の回りの整理と、邸宅の庭の清掃めで始めている始末である。こうして、阿部正弘筆頭老中は、大統領親書をひとまず受け取る指示を出す。
久里浜に急ごしらえの「受け取り会場」を用意して「米国人の上陸」を受け入れて受け取るのである。

吉田松陰は、浦賀に三泊四日で高台から観察を続けていた。
そうして、黒船の軍事力を詳細に洞察していたのであった。砲艦外交の背後にある「軍事力」や「技術力」、「富んだ國家」に思いを馳せていた。山鹿流のような日本古来の戦闘方法では、全く太刀打ちできない。
日本の現状への悲観と、先進諸国の「実地検分」しか方法はない。
海外渡航禁止の「掟」が吉田松陰の頭の中で、越えられない「カベ」として大きく立ちはだかっていたのであった。
この項は、次回につづく。
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