長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

長州藩『奇兵隊』誕生
【2015/09/04 09:36】 エッセイ
「奇兵隊」誕生事情

「奇兵隊」という名は、当時の藩の正規の軍(藩士のこと)に対して、命名されたことから「非正規軍」を意味していた。文久三年から、明治二年の「脱退騒動」までの短い期間であった。高杉が創設したのを、壊滅にさせたのは、同じ仲間の先輩にあたる木戸孝允であった。明治新政府は、財政難を抱えて居た事。そして、戊辰戦争に勝利して凱旋将軍さながらに、意気揚々と帰国して見たら「論功行賞」は期待外れだった。ここから、奇兵隊の不満が爆発する。明治十一年の竹橋騒乱も西南の役での実践兵への、論功行賞問題が伏在していたといわれる。ただ、こちらはエリートの近衛兵だったから、責任者の山県有朋は狼狽しながら、『軍人訓戒』を発表し、なおかつ頒布した。これが、後の「軍人勅諭」に連なっていくわけである。奇兵隊はこうした経緯で消滅した。勝者の中の敗者とでもいうべき結末だった。明治陸軍で活躍した山県は、山城屋事件で、失脚しそうになったが、西郷隆盛によって救われた。そうして、西南の役では、政府軍の司令官として西郷軍討伐の先頭に立った。なんと歴史は冷たく、悲劇を起す残酷な一面を持っているのだろう。矛盾をはらみながら、進捗していくのが歴史的営為なのかもしれない。奇兵隊の精神の原点は、吉田松陰の「西洋歩兵論」や、晩年の「草莽崛起論」から創出されただけに、松陰も、高杉も、不満足だったのに違いない。歴史の皮肉としか言いようがないと思うのである。


「萩ノ家中ハ下関ニテ ガチャガチャ致シ候者 逃支度在ル体ヲ見テ、町人百姓迄ガ武士ト申ス者ハ アノ様ニ弱リテ役ニ立タヌモノ歟(か)ト 皆々大ニ歯ガミ致シ候由」(匿名書)

これは、文久3年(1863)5月10日に、長州藩が下関でアメリカ商船、ベムブローク号の下関海峡通過に対して、幕府の約束した攘夷実行日の名分にて砲撃したことに対する米・英・仏・蘭の四ヶ国による反撃で、長州藩(軍)が壊滅状態にされた時の武士の戦いぶりの「腰抜けぶり」を暴露した書である。
四ヶ国艦隊との一戦で、太平の世に慣れきって、戦いに役立たずの武士の姿をさらけ出してしまったのを見た民衆が、揶揄しながらも冷静にみている大変興味ある文である。
元来武士の職分は戦闘集団であるはずなのだが、「元和偃武」以来の太平で武士が変質してしまったのである。治者階級として官僚化してしまった武士の末期的症状とでもいったらよいのか。

さて、本題に入る。この外艦との一戦の収拾にあたり、長州藩(藩政府)はそれまで脱藩の罪で「野山獄」に収監されていた高杉晋作を担ぎ出す。『先生(松陰)を慕いてようやく野山獄』と、収監の心境を歌に託していた晋作だったが、突然の宥免と大役が回ってきたのである。
高杉晋作25.12.07


ここから高杉の真骨頂が発揮され、時代の寵児となる運命が開けるから、人生は誠に不思議なものである。ではどうしたか?
高杉は「新策」を立てる。すぐさま萩から下関に飛んで、来島又兵衛と戦略の秘策を練って「奇兵隊」を組織する。もともと萩藩では藩士で構成する正兵があったが、これが前述のように役立たずであるから、別途の兵隊を組織した。これを正兵に対する呼称として「奇兵隊」と名づけた。高杉は藩主に上申書を提出する。それには次のような内容が書かれていた。

奇兵隊々法上申書 (文久三年六月七日・高杉東行 奇兵隊日記)
「赤間関一昨日五日之変に付、私儀御前召出され、防御方御委任仰せ付けられし段、御直に仰せ聞かされ其旨を得奉り候 馬関到着仕り候処、有志之者日増に相集り御模様にこれあり候間、不日に奇兵隊相調、屹と防御之手段仕るべくと存じ奉り候 夫に付廉々左の存付に仰せ付られ度、願ひ奉り候」
一、 奇兵隊之義は、有志之者相集り候に付、陪臣、雑卒、藩士を不撰、同様に相交り、専ら力量をは貴ひ、堅固之隊相調可申と存奉候(以下略) <高杉晋作全集上259頁> 
150904奇兵隊


 ここでは、一切の格式、門地を問わず、ただ実力、能力、戦意で登用せよということが最大のポイントである。つまり、従来の世禄の藩士では冒頭の文言のように、腰抜けで、戦意が乏しいから、有志の者を募って組織するのだというのである。その有志とは百姓でも町人でも下層階級の者でも構わぬ。身体壮健と勇気、戦意あればよいとの考え方である。こうして近代軍隊のハシリとしての「奇兵隊」が発足する。以後、諸隊が続々と組織される。曰く「膺懲隊」・「御楯隊」・「金剛隊」・「神威隊」などなどである。実は、これが後の幕府と長州征伐での戦い、そして戊辰戦争で大きな力となるのである。しかし、明治新政府誕生後、その終末は悲劇的だが、このことについては別の機会に詳述したい。

なお、高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・入江杉蔵の四人を松陰は特に期待したことから、『松下村塾四天王』とその人材を称えた呼称がされているが、この「奇兵隊」組織の時に、活躍したのが「入江杉蔵」である。数ある松陰の弟子へのはなむけの送序文で、名文といわれる「杉蔵往け! 月白く風邪清し、飄然馬に上りて、三百程、十数日、酒も飲むべし、詩も賦すべし。今日の事誠に急なり・・・」と書き与えた人物である。
しかし、この四人とも、残念ながら大政奉還を見ることなく倒れてしまうのである。松下村塾の幾多の人材については追々、詳しく記事を書いてみたいと思う。
関連記事
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://kinnhase.blog119.fc2.com/tb.php/333-99a97631
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR