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『幕府奉行を震撼させた自白』の場面の高杉への報告書
【2015/09/06 19:29】 エッセイ
「高杉晋作宛」書簡     安政六年七月九日頃  松陰在江戸獄 高杉在江戸

この書簡は『留魂録』や『諸友に語ぐる書』を理解するためには、『必読の書簡』であります。
第一回目の評定所での吟味(取調べ)の様子が、生々しく書かれています。
松陰の念願(幕政改革の提言を願った)が、必ずしも十分に(松陰の言葉では十のうち、四か五の程度)汲み取ってくれない無念さを読み取ることが出来ます。
書き留めしていないことが書かれています。これが、後の十月十六日の評定所の場面に繋がって行きます。ですから、松陰は「権詐」と表現しました。真意が本当に、しかも十分に伝わらなかった無念さが解かります。

すなわち、十月十六日以前に、井伊直弼の「遠島を死罪に変更」したことが推測されます。明和事件も、宝暦事件より処罰は厳しかったのと同様に、井伊直弼は、譜代の筆頭であるがために百年前と似たり寄ったりの判断でした。「開国の恩人」如き評価を下している書物には閉口してしまう。知らない人は、こうした「顕彰の行為」を、そのまま受け入れてしまう。危険なことである。
ある意味で「馬鹿正直」すぎた松陰は、戦略的(法廷戦術)には疑問が残ります。軍学師範ですから「オハコ」のはずなのに、どうして法廷戦術を誤ってしまったのか?残念です。半面、人生の道半ばで倒れたからこそ、支持者が多いと言えるのかもしれません。老醜の「たわごと」を残さなかった故に、無限の可能性を松陰ファンは夢みて松陰を礼賛していることもあり得る事と推測されます。
それはさておいて、まず、「信頼する愛弟子」への書簡を、虚心坦懐の気持ちで読んで頂きたいと願っています。

では、下記の「吉田松陰全集」(大衆版358頁)の全文を読んでみて下さい。

吉田松陰結跏趺坐小


評定所の様子大略申上げ候。問个(もんか)條二つ、一に曰く、「辰年冬、梅田源次郎長門へ下向の節、密かに面会何を談じ候や」。余曰く、「談ずる所なし、ただ禅を学べなど學問の事を談じたる迄なり」。奉行曰く、「然らば何故蟄居中故(ことさら)に面会せしや、不審なり」。余曰く、「御不審御尤もなり。吾れも源二心中知る能はず。但し源次二郎曰く、余が長門へ來るは、全く義卿丑年余が京寓を尋ね來たりしいり、追々長門人への因み出來たるになれば、其の本を思うて來問するなり、別に談ずべきことなしと。故に寅も亦辭せずして面會するなり」。二に曰く、「御所へ落文あり、其の手跡汝に似たりと源二其の外申し出づるものあり、覺え之れありや」。余曰く、「斷じて覺え之れなし。寅著はす所、狂夫の言・對策・時勢論・大義を議す等忌諱に觸るるもの少なからず。若し是れ等の作、他人携へ去って 御所内に投ぜば心底に任さざれども、吾れ敢へて落文をなさず」。奉行曰く、「汝上京はせぬか」。余曰く、「吾れ一室の外曾て隣家へだも往かず。是れ萩中萬耳萬目、掩ふべからざるなり、何ぞ乃ち上京せんや」。曰く、「憂國の餘、人をして落文せしむる等のことはなきか」。余曰く「寅の観る所大いに然らず。試みに時勢論を見給へ。寅明かに 明天子・賢将軍・忠侯伯なし得ざるを知る、故に自ら天下の事をなさんと欲す。豈に落文を以て、明天子に難きを責めんや。此の事寅必ず為さざるなり。抑々落文は何等の文ぞや」。奉行初め數行を讀み出す。余曰く「寅の為す所に非ず。若し寅が手書を得んと欲せば、藍色の縦横なる家板に楷書に書きたり。其の他は寅の手録に非ざるなり。落文とは何如なる紙ぞ。」奉行曰く、「竪の繼立紙なり。」寅曰く、「非なり非なり」。奉行端を改めて曰く、「赤根武人は知るか」。余曰く、「熟知す。彼れ少年の時曾て僕の家に來りて寓す」。奉行曰く、「武人皆汝が策を知るか」。予曰く、「恐らくは一二を知って八九を知らず。武人は源二の塾に在り、源二の捕へらるる、御不審なきに因りて歸國を免ぜらる。時に萩に來り半日談ず。直樣亡命上京す」。奉行曰く、「武人何故上京する」。余曰く、「其の師、縛に就き、弟子亡命して上京す、其の志問はずして知るべきなり」。奉行猶ほ余を援(ひ)きて梅田の黨に入れんと欲す。余慨然として曰く、「源二も亦奇士、寅相知ること淺きに非ず。然れども源二妄りに自ら尊大、人を視ること小兒の如し、寅の心甚だ平かならず、故に源二と事を同じうするを欲せず。寅は則と別に為すあるなり」と。因って詳かに丑寅以來の事を陳ぶ。奉行亦耳を傾けて曰く、「是れ鞠問の及ぶ所に非ざるなり。然れども汝一箇の心赤、汝の為めに細かに聽かん、縷述を厭はざるなり」と。余乃ち感謝再拜し、因って應接書を暗誦し逐一辯駁す。奉行また色を動かして曰く、「汝蟄居し國事を詳知するは怪しむべきなり」。余曰く、「寅の親戚、讀書憂國の者三數人あり、常に寅の志に感じ、寅の為めに百方探索し以て報知を致す。是れ寅の國事を知る所なり。寅死罪二あり、皆當に自首すべし。但だ他人に連及するは心甚だ之れを惧る、敢て陳ぜざるなり」。
150906江戸期の法廷


奉行温慰して曰く、「是れ大罪なきなり。之れを陳ずるも妨げず」と。余謂へらく、奉行亦人心あり、吾れ欺かるるも可なりと。因って玄瑞・清太二人の名を挙ぐ。奉行亦甚だしくは詰らざるなり。已にして奉行問ひて曰く。「所謂、死罪二とは何ぞや」。余曰く、「當今の勢、天子・將軍と列諸侯と萬々做(な)し得ず。寅明かに其の做すこと得ざるを知る、故に自ら做さんと欲す。故に再び書を大原三位に致し、吾が藩に西下せんことを請ふ。三位果して吾が藩に下らば、則ち三位と謀り吾が公を論諌せんと欲す。三位確報なし。吾れ其の為すあるに足らざるを疑ふ。會々(たまたま)間部侯上京して、朝廷を惑亂するを聞き、同志連判し上京して侯を詰らんと欲す。二事未だ果さず、藩命、寅を捕へて獄に下す」と。是(ここ)に於て座罷(や)み、後再び余を召す。奉行曰く、「汝間部を詰らんと欲す。間部かずんば將に之れを刃せんとしか」。余曰く、「事未だ圖るべからざりき」と。奉行曰く、「汝が心誠に國の為めにす。然れども間部は大官なり。汝之れを刃せんと欲す、大膽も甚し、覚悟しろ、吟味中揚屋入りを申し付くる」。
九日の吟味大略此の如し。只だ匆々(そうそう)中余が口陳僅かに十の四五にして、役人悉く書き留めもせず、孰(いず)れ後日委細の究明あらん。委細に陳白せば、余が死後委細の口書き天下に流傅すべし。其の節御覧下さるべく候。
奉行三人皆其の人を知らず。一人は石谷因幡守ならん。○今日の議論三あり。奉行若し聽を垂れて天下の大計、當今の急務を辯知し、一二の措置をなさば吾れ死して光あり。」若し一二の措置をなす能はずとも、吾が心赤を諒し、一死を免せば吾れ生きて名あり。」若し又酷烈の措置に出て、妄りに親戚朋友に連及せば、吾れ言ふに忍びずとも亦昇平の惰氣を鼓舞するに足る、皆妙。
高杉晋作25.12.07


この時、松陰自身は自分の処分がどうなるのかの展望は、持っていなかったに違いない。それは、この日付の後の書物(書簡含む)で、遠島、他家預け、国元蟄居などと処分を見定めきれていない。
それが、十月十六日の呼び出しで「お白洲」(評定所)に出頭してみたら、俄然、奉行の態度が厳しいものとなり「口書きの署名」を求められて、大音声の論争となるのである。そして、松陰の主張を受け入れたかのように見せかけて、その実、文言の修正は松陰の思いと異なっていた。
松陰の言葉では「末文の改めざるを見ると、首をとるに違いない」と確信したのである。そうして、この日から十一日後に松陰は「権詐」の「奸計」によって斬首されてしまうのである。
しかし、「師の志」の継承を願った松陰の『留魂録』の真意を汲み取った門下生に引き継がれて、徳川封建体制(西欧からすれば時代遅れ)が消滅するのであった。だから、「明治維新」を、慶應三年(1867)10月14日の「大政奉還」や、12月9日の「王政復古の大号令」に限定した説明は、正しい説明とは言い難いのである。私の大学での授業では「1830年頃から明治23年の帝国議会開催」の半世紀を掛けて、封建体制の破壊と近代国民国家建設への過程をマクロ的に、世界史と照合させて理解(把握)することが正しいと説明するのである。明治初期の、庶民が認識した「ご一新」というだけでは、正しい明治維新の理解とはならないのであります。

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