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『幕末の薩摩藩』と島津重豪
【2015/12/25 14:37】 エッセイ
「薩摩藩幕末前史」

今、茨城県県南生涯学習センターで「江戸期の改革の旗手たち」のシリーズで講座をやっている。来月十九日には「調所広郷の財政改革」を予定して、調べ物などをしている。
先ず驚いたことに、極端に史料や先行研究がないのである。幕末の薩摩は、島津斉彬、西郷隆盛、大久保利通らの活躍を強調するあまり、調所広郷は無視または悪者扱いの立場に追いやられているようだ。天保の改革と言えば、水野忠邦による幕政改革、長州藩の藩政改革、肥前の藩政改革等が真っ先に挙げられるのであるが、薩摩藩も国産品の改良、増産奨励や砂糖の専売制の実施、唐物貿易拡大、そして極端な債権踏み倒し(五百万両)の荒療治をやったことで有名である。そうしてさらに五十万両の潘庫への貯蓄の達成をさせたのであった。幕末薩摩の財政改革は、藩主の権力闘争的な要素も絡んで他藩に比べて複雑である。島津重豪、島津斉宣、島津斉興、島津斉彬、島津久光と5代にわたる藩主、または時の最高実力者の政策やブレーンによって「暗闘史」ともいうべき闘争(対立と処罰)と、次期藩主の座を廻って異常な事態が続いた。

151225島津重豪151225島津斉興



先ずは、11代将軍の岳父となった三位の宰相(大御所、藩政後見)こと、島津重豪から始まる。此の人は破天荒な藩主で、しかもハイカラ好みと来ている。オランダに限りない興味を示し、参勤交代の途中では興味の示すままに長崎へ立ち寄り海外の知識を見聞して仕入れた。中国語も話せたと云うから、只の贅沢大名とは異なる。子沢山でも有名で中津藩の奥平家、筑前黒田家、陸奥の南部へも養子に出し、極めつけは徳川将軍家に娘の茂姫を輿入れさせる。これが一橋家斉に嫁いだのであったが後に家斉が田沼の推薦で、家治の後を継いだことから将軍家と縁戚になった。そうかと思えば五摂家筆頭の近衛家との縁戚も結ぶという怪物ぶりである。藩内では後継者の藩主斉宣の財政改革実施に当たっての改革で人事交替を咎め、有名な「近思録崩れ」を演出した。また、財政が二進も三進もいかなくなると、茶坊主上がりの調所広郷を改革主任に抜擢し、荒療治や唐物の琉球や長崎を通じた交易もする八面六臂である。近思録崩れから、斉宣を隠居させて斉興を藩主とさせたのも重豪である。

151225調所広郷西郷隆盛25.01.11


さらに斉興は、何時まで経っても藩主の座を斉彬に譲らない。斉彬は四十歳を過ぎてもなお世子のままである。普通なら隠居となってもおかしくない年齢になっても藩主に襲封させない異常ぶりである。遂にしびれをきらした末に幕府の首席老中であった阿部正弘と手を組んで、半強制的に引退させるのである。此の間、近思録崩れによる藩内粛清を繰り返すかのように、久光を後継藩主にしようと企んだ「お由良騒動」という権力闘争を引き起こし藩主の座を廻って後継争いをする始末である。この重豪は八十九歳まで長逝し、ほぼ一世紀及ばんとする長期政権を握った。「島津に暗君なし」と言われるが、そうであろうか。権力維持に異常な執念を示し、あたら有能な人材を失わしめ、一方では財政感覚の欠如が招いた慢性的な財政赤字を招いたのも事実である。調所の死因は毒殺説もある程で、これは斉彬が対立関係にあった島津久光派に属したことからの悲劇である。調所は伝記を読む限り、藩主への孝心が厚く強引ともいえる指示命令を忠実に履行したのであった。その挙句に毒殺説が流れるほどであったから、極めて気の毒な役回りを演ずることになった。こうしたことを考え合わせると、島津藩主は名君と一概に呼称してよい物かどうか、判断は慎重を要すると思うのである。幕末維新期に長州と並んで牽引車となった明治維新に対する功績から、薩長史観のもとに影の功労者ともいうべき財政改革を成功させた調所広郷が居なかったら、当然薩摩藩の立場は異なっていただろう。黒砂糖哀歌で知られる、島民への苛斂誅求は名君の名に値するかどうか、慎重に調査して見なければならないと思うのである。江戸期を通じて名君の名を誰もが称える島津斉彬だが、こんな見えない部分もあるのである。それかあらぬか、斉彬は藩主の在任期間は短く、後に禍根を残さないよう久光の嫡子の忠義を養子として宗家を継がせたのである。その結果、藩主の実父であることから『国父』として権力を恣にするが、西郷隆盛が地ゴロ(田舎者という意)と呼んだように、江戸の上屋敷での生まれでなく、無位無官の実力者という特殊な立場であった。つまり島津一門である重富島津の出であったから、郷里の鹿児島生まれという事になるわけである。
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