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『諸友に語ぐる書』
【2016/01/07 14:30】 エッセイ
諸友宛(書簡)    安政六年(一八五九)十月二十日頃  松陰在江戸獄三十歳

諸友に語ぐる書(未完)

吾れ甲寅の挙、自ら万死を分とす。図らざりき、幕府寛貸以て死せざるを得たり。
是れ今日宜しく幕府のために死すべきの一なり。甲寅の後、幽囚せられて国に在り、而も吾が公眷顧衰へず。是れ今日宜しく吾が公の為に死すべきの二なり。加之、聖天子宵衣旰食、夷事を軫念したまひ、去年来の事豈に普率の宜しく傍観座視すべき所ならんや。是れ今日宜しく天子の為に死すべきの三なり。三の宜しく死すべきありて死す。死すとも朽ちず。亦何ぞ惜しまん。
吾が藩多士、最も卓犖を称する者は僧清狂なり、而して清狂は則ち死す。最も忠貞を称する者は口羽徳祐なり、而して徳祐も亦死す。此の二人の者は人士の望を属する所、而疾病の犯すや死より貰されず。是れ死は人の免れざる所、吾が迂愚に於いて益々)惜(お)しむに足らざるなり。
水戸の鵜飼)幸吉・越前の橋本左内・京師の頼三樹三郎の諸人、皆当世の名士にして年歯皆壮、吾れと伯仲す。今皆死して不朽の人となる。吾れ豈に独り諸人に後るべけんや。
漢の朱雲・宋の施全・明の楊継盛、吾れ嘗て仰いで之れを慕ふ。今吾れ幸に一死を得ば亦以て三賢の亜たるべし。
今年五月、檻輿国を去る、平生の心事具さに語り、亦遺欠なし。諸友蓋し吾が志を知らん、為に我れを哀むなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり。
吾れの将に去らんとするや、子遠吾れに死字を以てす。吾れ之れに復するに誠字を以てす。子遠の言大いに是れ理あり、若し誠字にして未だ遂(と)げずんば、或(ある)いは頭巾の気習あらん。
但し(後分欠)・・・ 書きかけて途中でやめている。留魂録に書き換えたのかも知れない。
吉田松陰


1、 はじめに
安政6(1859)年10月16日、吉田松陰は幕府評定所に4度目の呼出しを受けた。
第1回目が7月9日、続いて9月5日、10月5日、そして10月16日であるが、当日は前3回と異なり、「口上書書判」命令と言ってこれまでの取り調べの内容を記したものを奉行より読み上げられて署名(花押)せよとのことであった。しかし、松陰のこれまでの取り調べに対する応答と記された内容が異なっているため、その確認をめぐって奉行との間で激しい応酬が行われ、松陰は強く訂正(弁駁)を求めた。しかし、老中間部詮勝への「要撃」をめぐって「切払い」か「刺し違え」の文言の修正にとどまっていたため、末文の所に「公儀に対し不敬の至り」という極刑を想定させる文言は修正されずにそのままであった。
評定所側の不条理な要求に納得せぬままこれを確認した松陰は「末文の改まらざるをみれば首を取るに相違なし」と判断したのであった。この日以来松陰は親族、関係者、門下生宛に書簡や遺書等を精力的に書き綴る事になる。掲題の書は、松陰の予てからの「志の継承」を願って書かれた強いメッセージと理解されるものである。

2、「志の継承」を強く願った吉田松陰
  吉田松陰は、その短い生涯に於て最も大切にし、自らに求めるのみならず、門下生にも厳しく言い聞かせていた語に「志」持つこととその継承があった。松陰にとって「志」は人間だけが持ち得る人生知の意味があった。従って志を持たない人物は松下村塾に於て受け入れがたいのであった。長逝した門下生の回顧談に『何のために勉強するか』と入塾希望を尋ね、志の所在を問いただした逸話が残されているが、この「立志・実行」こそが松下村塾の精神であった。安政2年に従兄弟の加冠を祝して書いた『士規七則』にも「志を立てて以て万事の源と為す」と有名な人生訓が書かれている。これは松陰の人生観、人間観に於て基調をなすものといえるのみならず、連綿と力強く門下生に継承されるべきものとして位置づけられる。
安政3年8月に松陰の幽囚中に萩を訪れた安芸の勤皇僧・黙林に宛てた書簡にもそのこと示す文言が綴られている。即ち『若し僕幽囚中の身にて死なば、吾れ必ず一人の吾が志を継ぐの士をば後世に残し置くなり。子々孫々に至り候はばいつか時なきことは之れなく候。』と、自分の志の継承が成果に結実する時が必ず訪れるとの信念を吐露している。こうした松陰の信念ともいうべき志は、自らの死をも忌避しない。生涯を通じて常に言行一致の態度を貫いた松陰は、評定所の判決にも従容として従い、死の恐怖におびえる姿は皆無で、これは後に述べる松陰の死生観に起因しているものと考えられ『諸友に語ぐる書』はこのような彼の信念を貫く形で松下村塾の門下生宛に書かれたと解される。


3、『諸友に語ぐる書』の性質
  「吾れ甲寅の擧、自ら万死を分とす。」の書き出しで始まる700字程のこの書は、実は完結していなく途中で書き止めている。従って書かれた日時も記されていないが、その内容によって安政6年10月20日頃と推定される。恐らく松陰自身が、これよりも優先して書きのこすべきものがあったと考えたためと思われる。因みに、10月20日に書かれたものがこのほかに幾つかある。「死を覚悟して」なお、自らの人生を完成させようとの強い意志が感ぜられるのである。まずこの日『父叔兄宛て』と題する有名な家族、親族あての書簡が書かれる。文意からして、生への執着を断ち切った清らかな心境で書かれたであろうと思われるこの書簡は、「死罪」を確実視した報告の形で書かれる。さらに、親族への感謝と気遣いの文面に溢れていて、死後の処置(祀り)についての希望を述べており、人としての道を求め続けた松陰らしい心の籠った報告文となっている。有名な和歌『親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん』はこの書簡の中で書かれる。同日付で門下生宛に書かれたものが2通、更に3日後の伝馬牢の同志宛に2通が書かれて、生涯に書かれた6百通を越える書簡が終了となり、全ての周到な準備を整えて最後の『留魂録』の執筆に取り掛かかったものと思われる。従って、この『諸友に語ぐる書』は留魂録とともに、松下村塾の門下生への遺著としての性格を持つものであり、ここで松陰が強調して述べているのは『諸友蓋し吾が志を知らん、為めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり』と書かれている通りであって、師の死を悲しむことより私の志を継承発展させてほしいとの願いである。日本国の植民地化の危機感を他の誰よりも強く深刻に受け止めていた松陰は、自らの死が日本の植民地化防止の端緒となる事を願っていた。それは安政6年3月26日の小田村伊之助・岡部富太郎宛ての書簡に、次のような記述があることからもうかがえる。『僕は諸友の名代に一死を賜はりたく候。罪名は大逆の律へ的當なり。』(全集八巻)。また同年4月4日の野村和作宛書簡にもこれを裏付けるかのように『人は吾れを以て亂を好むと云ふけれど、草莽崛起の豪傑ありて神州の墨夷の支配を受けぬ樣にありたし。然れども他国人共崛起して吾が藩人虚空にして居るなり。吾が藩に忠臣あらば早くいづれにか崛起して外より吾が藩を救ふ手段あるべし。何卒亂痲となれかし。亂痲となる勢御見居(す)ゑ候か。治世から直に亡国にはならぬか、此の所僕大いに惑ふ所なり。』として、日本国及び萩藩の防衛を強く望んでいるのである。安政6年の松陰は、迫りくる外圧の危機に対して日本国の防衛を担うべき人物が現れない現状に対して幕府や朝廷、藩のいずれをも期待できず失望していた。
そこには自らの死を以て起爆剤となるしか活路を見出し得ない思いを持っていた。このような考えの下に『吾れの死を哀しむなかれ』との門下生へのメッセージを強く打ち出すことによって、奮起を促したのであったものと考えられる。

4、「死して不朽の人とならん」―松陰の死生観―
  松陰は一方で、自らの死をもって「不朽の人」となるべき願いも併せ持っていたと考えられる。即ち自らの死を有意義ならしめたい心中を吐露している。「松下村塾聯」にも書かれているように『万巻の書を読むに非ざるよりは寧んぞ千秋の人と為らん』は松陰の門下生への呼びかけであったとともに、自らへも言い聞かせた言葉でもあったと考えられる。そしてまた、安政6年7月の高杉晋作宛の書簡でも自らの死生観を語っている。そこでは次のように書かれている。『死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず、道盡き心安んずる、便(すなわ)ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。』そうしてこれに続けて『死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言ふべきを言ふのみ。』と李卓吾の焚書や楠正成の「七生報国」の言葉を念頭に置きつつ教え諭している。こうした「意義ある死」こそ松陰が願ってやまなかったことで、日本国の存亡危機を説いて止まなかった松陰は自らの生死に重ね合せて門下の高杉に伝えたのであった。ここに松陰の志の継承に対する強い願望を見出すことができると同時に、松陰亡きあとの高杉晋作の行動の持つ意味を見ること事ができる。

長州藩内の政権運営をめぐって対立する反対派の「俗論党」一派から殺害の危険を感じた晋作は無駄死にを避けるべく逃避も辞さなかったし、文久年間に結成された「奇兵隊」も松陰の晩年に行きついた「草莽崛起」の考え方の延長線上において理解されなければならない。そこには「生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」との師の教えを忠実に守ろうとした門下生の生き方が見られるのである。米英仏蘭連合艦隊の下関襲撃後の英国からの「彦島租借」の要請に対し強硬に反対を貫き通したのも師から学んだ「アヘン戦争」の教訓であったに違いない。こうして松陰の死生観や志は、多面的な形で門下生に受け継がれていったのである。松陰自身は常に言行一致の人であった。そうして『諸友に語ぐる書』は単なる死を目前にした遺著というべきものであるばかりでなく、多面性を持ったものと理解されるべきである。彼の願った僧・清狂や橋本左内、或は古代中国の高士等の人物と比肩されつつ処刑される事に松陰なりの満たされる死生観があったのである。それゆえに読むものをして訴える遺著であるというべきであり、日本の独立維持のために門下生達が奮起してくれることを願ってこれが書かれた。
150331『留魂録』徳間


5、『留魂録』の先駆をなす書
この凝縮した彼の死生観をより解り易く伝えるために、獄中で語り合い志を共にできる同士も含めて門下生に伝える必要があるとの考えに至った松陰は、この書を書き止めて再度書き直すことにしたものと考えられる。『留魂録』執筆までの時間を、熟考に費やしたのに違いない。尊王攘夷に基づく新国家建設―それは外圧に耐えての日本の独立した姿であった¬が、安政年間という時点ではまだ具体的に描ききれなかった。嘉永7年の日米和親条約、安政5年の日米修好通商条約の締結後間もない時点ではそれは困難であったと考えられる。松陰が最も心を砕いたのは存亡の危機に在る日本の現状に対し、為政者の不作為を諌めることであったと思われる。自らを「志士を以て任ずる」考えを持っていた松陰は、国家に準ずる覚悟は当然出来ていたものと考えられる。安政6年5月の「江戸召喚」にあたって書かれた『家大人に別れ奉る』の中でも「少少より尊攘 志は早くに決し」と自分を振り返っているのである。
そして『諸友に語ぐる書』の通り、十月二十七日の幕府評定所において「公儀を憚らぬ不敬の至り」の罪状にて死罪宣告を受けるのである。そうして松陰の辞世となった『吾今国の為に死す、死して君親に負かず。悠々たり天地の事、観照明神に在り』を朗朗と謳いあげつつ従容として斬刑を受け入れたのであった。『諸友に語ぐる』の通り、自らの死を以て門下生への教育を完成させるとともに「志の継承」を確かな手ごたえとして感じつつ生涯を閉じたということが出来るのである。こうした松陰の最期は『留魂録』の最末尾に詠われている三首の和歌にも見出すことが出来る。即ち『討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払えよ。愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々。七たびも生きへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや。』の三首である。己の死を目前にしてなお国家の行末や門下生への遺言を塾考し、人生の終末時まで志の継承を託そうとする生き方に心を動かされない人はいないであろう。誠に天晴な日本人の典型を吉田松陰の生涯に見出すことが出来るのである。
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