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『船中八策』と『大政奉還』
【2016/08/10 20:03】 エッセイ
『船中八策と大政奉還』

嘉永6年6月3日、米国太平洋艦隊司令長官「ペリー」率いる軍艦4隻が相模の国・浦賀(現横須賀市)に来航した。
海防問題が松平定信老中の下で政治問題化して以来、半世紀余り経過していた。
この間、幕府をはじめ、多くの藩は海防意識が希薄であった。
後に「西南雄藩」と呼ばれる薩摩、長州、肥前(鍋島)などは、海防意識が高いのみならず、具体的に研究し取り組んでいたのであった。徳川幕閣は、「文化年間の撫恤令」、「文政の打ち払い令」と言われるように、「祖法としての鎖国」遵守の考え方から時勢に応じた(西欧事情)対策を採れないでいた。「無策」と言われても仕方ない。
それが、「アヘン戦争」情報が齎されてから、深刻に受け止めるようになった。この頃の老中で「海防掛」を担当していたのは、何と田安家出身の松代藩主・真田幸貫であった。幸運にも、松代潘には「佐久間象山」という、とびきりの秀才がいたことが幸いして、真田は象山を下級武士ながら「大抜擢」して、「海防掛顧問」として研究させた。

150505佐久間象山


象山は後に天保年間に「海防八策」という研究成果にまとめて、上書したが肝心の幕府官吏にこの意味するものがいなかった。怠慢の最たるものである。そうして水野忠邦による政策で「天保の薪水令」が実施されたが、時すでに遅く、日本の近海には西欧諸国の船舶が頻繁に出没し、対策を採ろうにも打つべき手が打てなかった。さらにオランダ国王の「開国勧告」すらも受け入れず、「祖法遵守」を第一優先の政策とした。世界の大勢の情報が極端に少ないのである。「オランダ風説書」や「唐船」の齎す、僅かな情報でしかなかった。しかも「オランダ」自身が、ナポレオンによって一時併呑の憂き目にあっていることすら知らない。幕府がこのことを知ったのは何時ごろであったろうか。「外交特権」を背景に、限られた海外情勢でどこまで西欧事情を知悉出来たろうか?
二世紀半近くの「政治的特権」に胡坐をかいていた幕閣。その内部は、身分制に基づく『保守主義』で、動脈硬化以上の「わが身の安泰最優先」の意識から抜け出せず、危機意識の著しく欠如したものであった。
ペリーの来航以来、十年近く経過した時点で幕府内部の腐敗体質に手術不可能を見て取った「大久保一翁」の大政奉還論を龍馬は訊くのである。勝海舟は阿部正弘の意見徴集に応じて、「海軍の創設」を建言し、それを高く評価したのも実は「大久保一翁」であった。幕藩体制では、国際社会と比肩して生きる國家の体裁をなしていない。坂本龍馬の生涯で、この二人と松平春嶽と顧問役だった肥後の「横井小楠」に出逢えたことが、龍馬をして幕末のヒーローに仕立て上げたといえる。その延長線上に、「船中八策」と「大政奉還」があることを銘記すべきである。

161004山内容堂
土佐藩は藩主の山内家が、関ヶ原の戦いで東軍側につき、その戦功で遠州掛川六万石から一躍二十四万国の大名に大出世を遂げたことから、外様とはいえ譜代に近い徳川への恩顧を強く持っていた。
したがって、文久元年に、江戸で「土佐勤王党」が結成されたが、その構成員は大半が「郷士・庄屋層」の人達であった。
その中でも、坂本家は商家の出である。これは、江戸中期以降の「譲り受け郷士」といって、郷士株を購入して郷士身分としては、山内家の旧長曾我部家臣を郷士とした初期からの「慶長郷士」とは異なる。
文久年間以降「志士として覚醒」した坂本龍馬は、徳川支配の行く末に時代の行きづまり感を覚えたのであろうか。武市半平太の名代として書簡を携えて萩を訪問する。ここで長州藩を代表して応対したのが、吉田松陰の愛弟子であった久坂玄瑞であった。その「草莽崛起」を基調とした「処士横議」の論を聞かされた龍馬は、土佐が時代遅れの考え方を反省させられる。京阪を経て土佐に戻り、久坂との面談の報告を済ませると、突然脱藩する。京阪を見た時勢は「尊王攘夷」の嵐が吹き荒れていた現実であった。
土佐藩の因循姑息な潘状からの脱出であり、ここから、「自由児」としての龍馬の、東奔西走の活動が始まる。武市半平太が「あだたらぬ奴」と龍馬を評したのは此の時である。土佐の勤王党も保守派の執政「吉田東洋」を暗殺し、藩の方向転換を図るが、前の藩主である山内容堂は、文久三年の京都における尊王攘夷派追放の政変以降、持論の公武合体運動への自信を深め、難局への対処の指針ととした。土佐勤王党への弾圧と共に、一方では国内政情を見極めつつ藩論を固めて行ったが、長州征伐の収拾策をめぐって徳川の末期を予測。やがて、龍馬や中岡等の活動も幕府の命脈を尽きると読む。それが、「薩長盟約」(慶應二年一月)に結実し、英国との連携も相俟って徳川政権の終焉体制を案出する。それが「大政奉還」であったが、薩長は「討幕」路線を主張。一旦は大政奉還がさらに進んで「新体制」が準備されるかと思わせたが、大政奉還の二か月後の「王政復古の大号令」によって主導権は薩長に移る。やがて戊辰戦争を経て、明治新国家の誕生へと向かうことになる。藩論を倒幕にまとめきれなかったことが、薩長の後塵を拝すことになった。しかし、龍馬の薩長盟約、大政奉還、船中八策は新政府誕生に大きな貢献を為したが、大政奉還一か月後の十一月、同じ土佐藩の同志であった中岡慎太郎と京都で暗殺されてしまった。

161004坂本龍馬 いきいき埼玉


1、 坂本龍馬の「船中八策」:慶應3年(1867)6月10日頃
坂本龍馬が、幕末ギリギリの段階で、徳川に政権返上させるべく進めていたものが、長崎から京都までの「船中」で具体化した。土佐藩の大政奉還論と薩長の討幕論との鎬を削るマッチレースであったが、この考えが「明治維新」への突破口となって行く。
しかし、慶喜の大政奉還発表と討幕の密勅が同じ日に出るという、際どい歴史的な一日であった。
① 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出ずべき事。
② 上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
③ 有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無の 官を除くべき事。
④ 外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
⑤ 古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべきこと。
⑥ 海軍宜しく拡張すべき事。
⑦ 御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事
⑧ 金銀物価宜しく外国と平均の法を設くべきこと。
(龍馬のすべて:平尾道雄 298頁)

161004大政奉還 いきいき埼玉


2、慶喜の「大政奉還」上表:慶應3年(1867)10月14日
坂本龍馬の提唱、「船中八策」を評価した参政・後藤象二郎は、土佐藩の前藩主「山内容堂」に大政奉還の「建白書」を差出すよう要請した。容堂からの建白書の提言を受けて、徳川慶喜は下記のような歴史的な「大政奉還の上表文」を朝廷に提出した。
龍馬はこれを聞いて感激し、「よくも断じ賜えるものかな」と繰り返し、慶喜の行為を称えたといわれる。そして、新政府の財政の相談に越前の由利公正を訪問、その帰りの京都へ颯爽として帰る姿を、司馬遼太郎は『竜馬がゆく』と掲題してベストセラーになった。
以下、その上表文を読み下したものを書いてみます。

陛下の臣たる慶喜が、謹んで皇国の時運の沿革を考えましたところ、かつて朝廷の権力が衰え相家(藤原氏)が政権を執り、保平の乱(保元、平治の乱)で政権が武家に移りましてから、祖宗(徳川家康)に至って更なるご寵愛を賜り、二百年余りも子孫がそれを受け継いできたところでございます。そして私がその職を奉じて参りましたが、その政治の当を得ないことが少なくなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、偏に私の不徳の致すところ、慚愧に堪えない次第であります。ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければ、最早国の根本が成り立ちませんので、この際従来の旧習を改めて、政権を朝廷にお返し奉り、広く天下の公議を尽くしたうえで聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことができると存じ上げます。私が国家に貢献できることは、これに尽きるところではございますが、なお、今後についての意見があれば申し聞く旨、諸侯へは通達いたしております。以上、本件について謹んで奏上いたします。(国史大辞典:大政奉還読み下し)
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この記事に対するコメント
古屋様、コメントありがとうございます。私も、土方歳三記念館を訪問したことがあります。土方さんと一緒に『シンポジウム』に出演したこともあります。坂本龍馬は、今年10月に5回の連続講座をやりました。日本国がピンチの時、必死になって植民地化を防止すべく、皆が努力しました。ただ、努力の方法論や、来るべき国家像の異なりから、対立関係となりました。それぞれが自分の立場で真剣に生きた時代が幕末だったと言えます。
【2016/12/08 10:27】 URL | kinnhase #- [編集]
> 初めまして古屋と申します。
> 生活の発見会で東大の辻村明先生のお話をしたら、嶋宮さんという方から長谷川先生のことを教えてもらいました。
> 自分も新選組、坂本龍馬などが好きで、去年は土方歳三資料館に行ってきました。
> よろしくお願いします。

古屋様、コメントありがとうございます。私も、土方歳三記念館を訪問したことがあります。土方さんと一緒に『シンポジウム』に出演したこともあります。坂本龍馬は、今年10月に5回の連続講座をやりました。日本国がピンチの時、必死になって植民地化を防止すべく、皆が努力しました。ただ、努力の方法論や、来るべき国家像の異なりから、対立関係となりました。それぞれが自分の立場で真剣に生きた時代が幕末だったと言えます。
【2016/12/07 13:37】 URL | kinnhase #pPoJw1fQ [編集]
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【2016/08/19 09:58】 | # [編集]

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