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薩摩藩天保の財政改革
【2017/01/11 10:13】 エッセイ
『調所広郷』① ―悲劇の薩摩藩財政改革者―

幕末維新期の立役者といえば、「薩摩藩島津家」と「長州藩毛利家」を誰もが異口同音に指を折ることに異論はないだろう。これに加えて「土佐藩」と「佐賀藩」を加えて「薩・長・土・肥」と併称されることが多いのもまた確かである。これは、幕末期から維新政府に多くの人材を輩出したことによるものです。明治十年代には「薩長」が新政府の要職を占めたことから「薩長藩閥政府」として批判の的になったのも、これまた多くの人に知られる所である。島津家も毛利家もともに「鎌倉初期」からの名族として、島津は近衛家との縁戚関係をはじめ、戦国時代には九州の覇者として、江戸期には外様大名でありながら将軍家の「御台所」を二人も輩出している。一方の毛利家は、そのルーツを公卿の「大江元」に持つ名門で、源実朝に近侍した。鎌倉幕府の創設に「勲功」ありとして、相模の国「毛利荘」(現在の厚木市)に大江広元の四男である「季光(すえみつ)」が土地を安堵されたことから毛利を称した名族と云ってよい。後に戦国時代になって毛利元就が活躍し中国地方の覇者となったが、島津氏同様に関ヶ原の戦いに敗れ、「外様大名」として生き残った。そうして六百年を超える武家社会の「歴史の風雪」に耐え、徳川末期に「天保の改革」を成功させて、名門復活とばかりに明治維新で両藩出身者が指導的地位に立ったのも何かの因縁を感じさせる。
さて、本稿の主人公である「調所笑左衛門広郷」であるが、彼の生誕は安永五(1776)年である。幕閣は十代将軍家治の治世で田沼意次と松平定信の確執となり、生誕の二年後には露国の使者が蝦夷地(厚岸)へ来航、松前藩に通商を要求するということが起きてようやく「鎖国体制」への変化の兆しが見え始める頃である。海外へ目を向ければ「アメリカ」の独立宣言が高らかに謳い上げられ、先輩格の英国に於ては近代市民社会が到来し、アダム・スミスの『国富論』が刊行されて「古典派経済学」が誕生し、市場経済秩序のメカニズムの解明・誕生を告げた年であった。フランスではルイ王朝が絶対王政を謳歌しつつも、『フランス大革命』勃発が二十年余の後に招来する頃である。


170110島津重豪と造士館170110調所広郷と島津斉興


東北の米沢藩では「興譲館」の再興がなり、薩摩藩に於ては有名な「宝暦の木曽川治水工事」が悪戦苦闘の末に終了し、総奉行の家老「平田靭負」の自刃をはじめ多くの犠牲と借財に苦しんでいた。八代藩主の島津重豪の豪快な散財の治世で借財は嵩む一方であった。そして一橋家の豊千代に嫁いだ三女の「茂姫」は、やがて家斉が十一代将軍となるので、重豪は「将軍外戚」として外様大名でありながら特別な地位を築くこととなった。将軍家との婚姻は莫大な経費が必要で、薩摩藩の財政は悪化の一方を辿ることになる。これらは重豪の欧化政策と相俟って財政を圧迫し続け、加えて重豪から斉宣、斉興と藩主が変わりながら芝、白金、高輪にそれぞれの藩邸・屋敷を抱えていた。藩主や前藩主が三名江戸に屋敷を構えるという、「金喰い虫」状態の珍事となった。この維持経費たるや莫大だったという。放漫財政の是正を期した斉宣の財政改革も、重豪の反撃に逢い「近思録崩れ」となって頓挫し、実態としては破産状態の藩財政であった。上方の豪商たちは「島津家」への貸し付けを渋り、七十七万石の雄藩は金策に追われ続けるありさまであった。幕末「薩摩藩の天保の財政改革」はこうした破綻状態の切羽詰まった状況の中で、藩政の実権を握っていた重豪からの強い要請から取り組むことになるのである。
薩摩藩内には、他藩にはない厳しい家臣団の身分階級があった。それは九階級にも分けられていた、武士の身分制度が「鎌倉以来」と言われる、長い統治の歴史の中で醸成されてきたもののようである。まずそれを列記してみると、①親族としての扱いになる御一門家(四家)を筆頭に、②一所持の一七家、③一所持格の四一家、④寄合の五四家、⑤寄合並の一〇家、⑥無格(山田家と亀山家)の二家、⑦小番の七一六家(他藩の馬廻り役相当)、⑧新番という二四家、⑨最下級の御小姓与(くみ)の三千九四家、という階級となっていた。その下に郷士、次に与力という身分階級の構成となっていた。今日の「平等思想」からは、考えられない複雑怪奇な身分制であって、これが固定的になっていた。そうして、更にこの下に各外城の座附士と足軽とがあった。これは、藩内では武士と言えない階級で、明治になってからも「卒族」として区別された。幕末長州藩における伊藤博文や山県有朋はこの階級とほぼ同じである。だから、伊藤も山県も明治新政府で顕官となっても、故郷に帰ると「あれは卒族」だからな!と、江戸期の階級でしか見られなくて、凱旋帰国などは思いもよらなかったのである。この他にどこの潘でも存在した高級な家臣の雇いになる「陪臣」が居たのであるから今日の感覚では理解が難しく、彼らは「またもの」として一段下級に見られていたから複雑極まりない身分階級で潘が統治されていたのである。それでも、多くの領民からすれば、「御小姓与」階級といえども立派な治者階級で選良とみられていたのであった。
薩摩藩で幕末期に活躍したのは西郷隆盛や大久保利通に代表される階級、それは「御小姓与」であった。何のことは無い、最下級の武士階級のレベルであったのです。川崎家に生れて「調所家」の養子となった「調所笑左衛門広郷」の、所属していた階級はこのように最下級の武士であった。なお、余談だが「調所」というのは、古代の地方官衙の税務担当係の職務から転じた名称を名乗ったようです。今日でいえば、税務署職員と言ったところでしょうか。
こうした最下級の武士の家柄から「家老」にまで出世したのは、偏に調所の人となりの能力や大殿様の信頼があったからに他ならない。現代風にいえば「三階級特進」を重ね合せたような立身出世としか言いようがないだろう。それは、ひとえに「調所広郷」の人となりに帰せられるべき能力と努力の結果、我儘な大殿様に信頼されたことへの「誠実無私」の職務精励にあったといえる。出世の階段は「茶坊主」という、実力者・重豪の期待に応えるべく己を空しくして尽くし続けた所からはじまる。その努力と辛抱は、今日では想像も出来ないほどの「辛苦」のなせる業であった。結果から記すと文政十一(1828)年、調所広郷の五十三才の時に「財政改革主任」を拝命したのであるが、ここに至るまでの努力は並大抵ではない。「重豪付奥茶道」となったのが、寛政十(1798)年で広郷が二十三才の時であるから三十年間の長きにわたって「精励」したことになります。この間に、「裏千家」の茶道修業から始まって、「茶道頭」、「小納戸」、「小納戸頭取・御用取次見習兼務」と累進して家格は「小番」へと昇格する。さらに「使番」、「町奉行」という栄職へと進む。
この「町奉行」と云うのは重要な職務であり、この頃から「人材としての調所広郷」が評価されてきたものといえる。そうして「小林地頭」、「側用人・側役勤、佐多地頭」と着実に要職を歴任して重豪や斉興の信頼を得ていく。この間に薩摩藩は「近思録崩れ」という藩内粛清を乗り越えて、調所は藩主側近として誠実に勤め上げるのであるが、その信頼は揺るがずに出世を遂げるのである。藩の財政赤字は、留まるところを知らずに膨れ上がり重豪は何人かの有能と思われる人物に財政改革を命じるが、その意を果せずについには辞退者が出る始末で困窮していた。そうして調所の五十三才の文政十一年、当時としては老齢の域に達した頃に運命の「財政改革主任」という命令(職務の拝命)となるのである。前置きが長くなったが、これ以降の調所広郷の大事業が始まる。ですから調所の「歴史的な大仕事」は、彼にとって晩年になってからの事となります。この二年後には年号は「天保」と改元され、徳川幕藩体制の維持は「内憂外患」状態となって試練の時を迎える。
調所を抜擢した重豪は、無理難題を命じる。五百万両の潘債を達成し、さらに五十万両の貯蓄をせよとの乱暴極まりない命令であった。当然調所は辞退するが、聞き入れない調所を切り殺さんばかりの剣幕であったと伝えられており、重豪も覚悟を決めた上での命令であったことが解かる。当時の銀主(貸金主)は、大半が上方の豪商であるが、それまでの実績は「返済しない薩摩藩」の評価はとどろいており、誰も借り入れの要請に耳を傾けなかった。だが金策が第一関門であり、散々の苦労の末に「出雲屋孫兵衛」が応諾してくれ、これとのつながりから「平野屋彦兵衛」、「炭屋彦五郎」、「炭屋安兵衛」、「近江屋半左衛門」の五人の新銀主が融資に応じてくれた。ここまで至るのに「決死の覚悟」だったといわれる。借金踏み倒しの常連のような、それまでの経緯が立ちはだかって、まさに「拝み倒し」というところであったろうと思われる。ただし大坂での正式取り決めが出来ず、江戸で最高実力者「重豪」が立ち合いでないと承諾しない。そうして「高輪邸書院」で重豪にお目見えしてそれは取り結ばれるが、此の時に条件が付いた。それは、改革の成功までは調所の担当替えをしないこと、さらに口約束でなく直筆の「朱印状」を書いた上でのことであった。これに対して重豪は、「調所が自分の意にかなわぬ時は代えるが、その場合はその方達に引き合いの上にて代える」という「枷」をはめられた上での取決めであった。天下の大藩・薩摩といえども、「面子」に拘って居られなかったのであった。時に文政十一(1828)年十一月二十一日の事であった。

これで、当座を凌ぐ目途がついたわけだが実際の改革は、まさに「これから」取り組むことになります。そうして調所は弘化元(1844)年に藩債完了と五十万両の備蓄報告を藩主の島津斉興にするのであるが、調所を抜擢して改革実行を命じた元藩主の「島津重豪」は、天保四(1833)年正月十五日に高輪藩邸において、当時では記録的な長寿の八十九才で大往生を遂げていた。したがって、改革の本丸は「道半ば」の時であった。以後、調所は重豪の孫、島津斉興藩主の下での改革事業を推進することになる。  以下、次号。
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