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『村田清風』--長州藩・天保の改革者
【2017/03/08 11:11】 エッセイ

【村田清風】―天保の藩政改革者―

天保元(一八三〇)年八月、長州藩の瀬戸内地方の各宰判(郡に相当)で「藩専売制」反対の一揆が発生した。その翌年の七月、萩から三田尻へ帰る「藩産物方御用商人」の石見屋嘉左衛門の駕籠と荷物の中から「皮革」が発見されたことを発端として、潘全域を巻き込む「大一揆』が発生した。長州藩ではこれを「天保の大一揆」と呼称している。
長州産の皮革は「長門皮」と呼ばれ、上方(大坂・京都)では上等品として評価が高かったので高価で販売できたのである。だから潘の役人と結託して暴利の期待できる長門皮を始めとして特産物を潘の「産物会所」で統制を加えていたものを、「抜け荷」として秘かに運ぶ所を現行犯的に発見したので農民は一揆をおこしたのである。藩の役人はこうした統制などに商人を利用していたので、農民にとってはこうした統制の裏で「抜け駆け」を監視する必要があったのである。結果は、一行の三人を縛り上げ、三田尻に連行したが、途中からこれを聞いた農民が続々と加わり、石見屋の家を打ち毀しはじめた。

160229村田清風161010毛利敬親



この藩内各地を巻き込んだ一揆の参加した村は百を越え、十三万人を超す農民が一揆に加わったとされる。当然、潘政は滞り、その対策に乗り出さざるを得なかった。吉田宰判の代官だった人物は一揆の首謀者たちに覚書を示した。そこには 一、皆々の腹立ちはもっともなことである。一、上様も気の毒に思っておられる。一、一刻も早く静まってほしい。の三箇条が書かれていた。そして、年貢米の計り方を改正し、百姓が申し立てている「産物会所の廃止」と自由売買の要求や、不正を働く村役人を追放したのであった。
当時の長州藩は巨額の負債を抱え、その解消策として農民たちが商品作物を自由な売買することを禁止し、一方で潘の専売制を強化して藩財政の好転・改善を図ろうとしていた。そのため農民の生活は極端に引き締められていた。この大一揆の背後にあるものが「藩庁役人と御用商人」との結託による「悪政」であると見抜いたのが、村田清風であった。こうした大一揆が発生するのは藩政を司る役人たちが「善政」を行っていないからというわけである。同時に清風は『鎌倉以来六百年、芸(安芸)來三百年の御家と御国を百姓蹴立候口惜さ之事』と自著(此度談)で云っている。即ち伝統ある毛利家と防長二州を百姓どもに蹴散らされて残念であるとの感慨である。反面では、百姓たちが一揆を起さなければならないような事態は、政治を統べる諸役所にあるとも云っている。この年、村田清風は表番頭格に列し「江戸当役用談役」という藩の重要な職務(実質的に家老職に近い)の立場にあった。

長州藩の場合は、藩主とその一門、永代家老二家、寄組の身分階級があり、これらが藩内における「貴族」扱いで、「城から近い堀之内」に邸宅を構えていた。その下の階級に藩士団の中核をなす「大組」(八組とも)があり、高杉晋作や桂小五郎らはこの階級に属し、吉田松陰などは更に下級で家臣として最下級だった。村田清風もこの大組階級の家格で、家老には原則としてなれない階級であった。いわば中級家臣団の一人であったが、清風は人材としては抜群の能力があったことから「江戸当役用談役」という家老級の役職に就き、後年の「天保の改革」の指揮をとることになる。また彼は享和二(一八〇二)年、ニ十歳の時義兄の要務に随行して江戸に出て松平定信に逢い、政治の要諦を伝授されていた。清風は藩庁に対し、多くの建言書を提出していたこともあって、天保八年毛利敬親が新藩主に襲封すると、藩政の改革に乗り出すことになった。公私の区別の厳格な認識を示す逸話が残されているのをみても、清風の願いが藩の善政実施への情熱が高かったものと推察される。「鎌倉以来」が毛利の家臣団の矜持となっていたようである。この意味では、薩摩藩の「島津家」も同様の、鎌倉以来と云う矜持を抱いていただろう。「薩長」の原点が、武家の家門としての誇りとして、「徳川何するものぞ!」という名門意識が内々で働いていたに違いない。事実、島津家も毛利家も鎌倉幕府創設以来の有力な御家人としての誇りある家柄だった。

170425村田清風と藩校明倫館



天保十一年五月と七月に「毛利藩政府」は藩政改革のための大会議を開き、清風や後に好敵手となる坪井九右衛門等をはじめとする有識の士から意見開陳の場を持った。この様子を「群才彙進し、諸職其人を得たり。積年因習の弊風是において將一洗せんとす」と『防長回天史』は記していて、優秀な人材を登用し「藩政の総合的な改革」に藩を挙げて取り組む意気込みが伝わってくるようである。このあたりに同じ頃に改革を進めていた薩摩藩との違いを見ることが出来る。この頃の長州藩は、村田清風が「八万貫の大敵」と呼んだ多額の藩債と多くの家臣も借財(公・私とも)が嵩んで困窮状態にあったのである。結果として御用商人と一部の役人が実権を握っている有様であった。こうした現状に対して、清風は改革の実施にあたって「破綻した藩の財政状況」の現状を藩士・領民に公開して「挙潘一致の協力」を求め、国産会所の専売制下にあった藍の統制を撤廃し、綿・木綿織の自由売買を認め、さらに櫨・蠟の統制を弛めて商品生産者的農民の要求に応じたのであった。藩が抱えていた膨大な負債は、無利息元金据え置き・元金据え置き利払い・年賦償還などの方法に因って改善に向かい、藩士や農民の協力によって藩債は最終的に償還される。ここまでは改革は順調に進められたが、困窮した藩士の借財を救済すべく実施した「三十七カ年皆済仕法」の実施を発令したことから、藩士に貸付けの銀の回収が三十七カ年も延期されることから、商人資本と反対派は猛烈な反対運動を展開した。薩摩藩程でないにせよ、この頃の各藩は大なり小なり藩財政が「火の車」状態であった。この傾向は江戸中期の宝暦年間(一七五一~六三)から顕著になり、肥後熊本の細川重賢や出羽米沢の上杉鷹山らが苦心して立て直し、長州藩も同様であった。清風の実施した政策の柱は「四白政策」と言われる「長州の特産物」を潘営の形で督励・育成し、一方では質素倹約による「支出の削減化」を図った。さらに「藩営の商社」ともいうべき「下関の越荷方」の拡大を実施した事である。北前船に代表される、大坂への各国の特産品を一時保管して相場を見極めて、上方の価格が高騰した時にそれを輸送して売りさばくという金融政策でもあった。これが功を奏して「馬関(下関)」は経済的な要衝として、潘をあげて重要な役割を担うことになる。こうした、一種の倉庫業の営業開設には相当の多額な資金が先行投資されなければならないが、ここが長州藩の特異なところであって、実は江戸中期からの「撫育金」という一般会計と分離した貯蓄がなされていたのである。この撫育金は「宝暦の改革」を主導した八代藩主、「毛利重就」によって「宝暦検地」が行われ、四万一千石の増額となったのを、財源に設置されたもので、藩の一般会計から独立したものであった。

170425義なくば立たず村田清風


長州藩の因習とは藩の役人と結託して暴利をむさぼる特権商人の跋扈する実態を意味していた。清風はこうしたことのしわ寄せが百姓をして忍耐の限界から「天保の大一揆」となったことを見抜いていたのであった。そうであるから「抑商主義」を思い切って導入し、一方では藩営の事業を督励して「藩庫の潤い」を促進させる政策を採用したのである。しかし、これをマクロ的にみると幕藩体制の保全・維持政策の努力であったということもできる。武士の経済的困窮を救うべく、清風の建策として発令された「三十七カ年皆済仕法」は、既存の利益を確保しようとしていた有力商人と、清風に対峙していた一派の反発を招き村田は退陣を余儀なくされた。弘化二(一八四五)年のことであった。しかし、彼の私心なき考えは後輩の周布政之助や吉田松陰に受けつがれ、幕末の最終段階になって高杉晋作の活躍と云う藩内抗争の勝利の伏線へと連なって行くのである。このことは長州藩内では「革新派と俗論派」とに区分けされるが、これは勝利した側の呼称である。村田清風に対峙していた「坪井九右衛門一派」(俗論派)は、清風の退陣と共に特権商人階級の擁護策を復活させる「公内借捌法」実施を断行するのであるが、間もなく多くの支持を失って退陣となる。この「公内借捌法」というのは、お上から借りた公借金は法によって無借とし、内借(内々で私的に借りた借金)も、お上の手により立て替え払いとしてやり、これも無借とするものであった。何時の世も改革には既存の利益体制を保持したい一派とそれを解決しない限り改善の実現は困難として積極的に支持する一群とに分裂するのは、現代でも再三にわたって私達が見聞するところである。
村田清風の行った「天保の改革」は、「天保二年の大一揆」に淵源を持つと考えられるので、時に経済財政方面に力点が置かれた説明がなされるのは致し方ないが、商品経済との格闘に取り組んだのは事実であり、当時の潘は大幅な自治を保持していたことから一藩をどのように統治するかが問われたのであった。従って「国家は経済のみにあらず」で、この頃は西欧各国の艦船が日本の近海に出没を繰り返していた。その真意は時に「開国」や「通商要求」、あるいは「捕鯨船の救済策要請」や「漂流民の護送」等々の形をとったが、大きくは西欧資本主義社会の発展形態としての行動であった。特に清風の改革が進行中に「モリソン号事件」や「アヘン戦争」の情報に衝撃をうけ、海防問題が幕府のみならず政治問題化して来た。総じていえば、徳川幕府の統治策は「国内統治」に専念していれば事足りた事であったのである。そのためには「鎖国」という、徳川幕府の対外政策は大変便利に機能していたということが出来る。これが、国防意識が育たず西欧に大きく後れを取ることになったのは何とも皮肉なことであった。村田清風は早くに国防意識を持っていたことから、「軍事改革」や「洋学と医学」の取り入れ、人勢育成のための「明倫館の大増築」も行った。薩摩藩程に明確な改革の成果は得られなかったが、村田の考えは後継者に引き継がれて周布政之助や吉田松陰、高杉晋作らに引き継がれていくのである。

吉田松陰


吉田松陰は清風死去の報に接して「清風の伝記編纂」を小田村伊之助や友人の土屋䔥海に依頼しているのである。結果的には実現しなかったが、今日「山口県教育会」より上下二巻として「村田清風全集」が刊行されている。此の事を見ても、幕末長州間の活躍の基礎を作ったのは間違いなく村田清風の功績として評価することが出来る。長州藩「天保の改革」の出発時の潘債八万貫は安政年間に返済が完了しているので、長州も藩の改革は成功したと評価することが出来る。そして何よりも潘を挙げての殖産興業政策、とりわけ下関の「越荷方」は藩内の商品でなく他国の商品を活用することができ、そこに長年にわたる「撫育金」の備えがあったことが大きく貢献したものと思える。
この天保期の改革が成功したか否かが、幕末政局のカギとなったのであった。
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