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『上杉鷹山ー米沢藩の再建者』ー①
【2017/03/08 18:14】 エッセイ

『上杉鷹山』 -江戸期の名君ー①

昭和36年(1961年)1月、米国第35代大統領に就任した「G・F・ケネディ」は異色ずくめの大統領だった。競った「R・ニクソン」との大統領選挙史上でも例のない程の接戦の末に勝利したこと。そして、現在は公用語として禁止されている「WASP」に該当しない、アイルランド系の「カトリック教徒」であった。さらに反対者の多いとされた米国南部のテキサス州・ダラスで何者かに銃殺されるという衝撃的な生涯を閉じた。任期半ばでの死であった。現在でも暗殺者は特定されていない。

160229上杉鷹山ケネディ大統領



就任間もないケネディ大統領に日本の新聞記者が「尊敬する日本人は誰か」と質問したところ、即座に、それは「ウエスギヨウザン」です。という答えが返って来たのだが、質問した記者たちが「ウエスギヨウザン」って誰だ。どういう人物で何をした人なのか知らなかったというエピソードが伝えられているのは有名な話で、大半の人達が知らなかったのであった。現在では岩波文庫の『代表的日本人』(内村鑑三著)で読むことが出来るし、九十年代に「上杉鷹山」ブームが起きて、沢山の出版物が刊行されたことは記憶に新しいところである。戦前の『尋常小学修身書』でも上杉鷹山は「倹約」の稿で採り上げられている。将軍補佐で老中となった松平定信から、「全ての藩主の鑑」と激賞され、在世中にして名君としての評価が高かった。事実、天明七(1787)年九月に将軍家斉から、在職中の善政で表彰されている。徳川二百六十年余の中で、「名君中の名君」と誰もが称える、米沢藩主であった。

さて、上杉鷹山は宝暦元年(1751)、日向三万石の第六代高鍋藩主・秋月種美の二男として、秋月家の江戸上屋敷一本松邸に生れた。母は筑前秋月藩第四代藩主黒田長貞(長治)の娘(春姫)で、五代藩主上杉綱憲(吉良義央の長男)の娘豊姫(瑞耀院)であるので、八代藩主の上杉重定とは従姉の関係である。因みに黒田長治(幼名長貞)は筑前の外様大名である黒田家五十二万石の支藩の藩主である。鷹山は幼時から優れた才能と孝心の持ち主として評判であったと言われ、後年の名君・鷹山の功績や人と為りを考え合わせる時、興味深いものがある。「栴檀は双葉より芳し」のことば通りであったようだ。重定には正室の後継ぎがなく、幸姫(よしひめ)のみが成長して、養子内約で鷹山が決定した四か月前に側室の勝煕が米沢で誕生しているが、これは側室の子である事と、行末の成長が現代のように確実視されなかったという理由によって内約はそのまま実行された。

鷹山が高鍋三万石の小藩の二男から、名門上杉家に養子が決定したのは幼時からの評判と、瑞耀院(吉良義央の孫)の働きかけがあったからと言われる。縁戚からの養子ということであるが、江戸期を考える時、「養子制度」と云うのは家系を維持していく上で重要な役割を持つことに注意をすべきである。それは、将軍家から大名、藩士に至るまで養子制度の活用で「家」が継承されていくのである。紀州藩主から八代将軍となった徳川吉宗や、十一代将軍一橋家斉、十四代の徳川家茂、十五代一橋慶喜らがこれによって将軍職を継いでいる。幕末の藩主でも伊達宗城は旗本の山口家からの養子であるし、越前の松平春嶽は御三卿の一つ田安家からの養子である。萩藩の毛利敬親や土佐藩の山内容堂、などは名君として知られるが、宗家の家柄でなく、分家の家系に誕生しながら養子制度の下で藩主の座についたという経緯を持っている。吉田松陰も杉家に生れながら二男ということで吉田家に養子に入って「家学」である山鹿流軍学師範となったのであった。江戸期の「家」は長子相続を原則としたが此れを補ったのが養子制度であった。

話を本論に戻そう。養子が決った鷹山は宝暦十年(1760)、秋月家の一本松邸から上桜田の上杉家上屋敷へ移った。なお鷹山は号であるが、これが最も人口に膾炙したものであると思うので、ここでは鷹山の名称を使う。明和元年(1764)に将軍家治にお目見えし、同年元服して従四位に叙されて弾正大弼治憲と改名した。四年後に家督を継いで出羽米沢藩主となった。しかし、正室の幸姫(前藩主重定の娘)は心身の発達が不十分で、ひな飾りや玩具遊びといった「ママゴト」のような遊び相手を続けたという。鷹山の「忍の人生」はここから始まるのである。家格がものをいった大名家で、小藩の秋月家から名門大名の上杉家に養子入りするにあたって、心配した老臣「三好善大夫重道」(宝永元年・1704~宝暦十年・1761、十一月)は懇切な訓戒書を鷹山に贈っている。これは上杉鷹山の事績を綴った大著『鷹山公世紀』(池田成章編纂:明治三十九年、吉川弘文館刊行)で読むことが出来る。長文なので略記すると、養家を継ぐからには決して恥辱を残す事があってはならぬとし、そのためには忠孝や学問、武芸など上杉家の作法に従い、それに違犯することなきよう生涯にわたって努力精進することなどが詳しく書かれている。三万石という小藩の出身から名門の上杉三十万石に養子として入ることの覚悟を促したもので、鷹山は生涯にわたって此れを秘蔵し続けて守り抜いたと言われる。こうした所に鷹山の人となりを見る事が出来る。鷹山が十歳の頃と思われるから、如何に強固な意志の持ち主だったかが解かる。

170309平洲の米沢招聘

鷹山の「お国入り」は明和六年(1769)であるが、この年に鷹山の師範であり、側医・儒者でもあった「藁科松柏」が死去している。この松柏は時代の危機を示す非常に有名な言葉を残しているので紹介しておきたい。「そこもここも一揆徒党の沙汰にて、日光が済めば山縣大貮が出現、大坂が騒げば佐渡ゆるる、伊勢路ももめれば越路もかしましく、斯様に百姓の心騒がしく成り行き候も、畢竟は一度は治り、一度はみだれ候天道の事に御座候えば、そろりそろりと天下のゆるる兆しも有るべく御座候哉」(鷹山公世紀巻之一)。これは米沢藩士の小川源左衛門の藩政批判への復書の中で書かれている。明和五年(1768)十二月のことで、この頃、明和事件や佐渡一揆、日光社参の伝馬騒動が起きており、幕府は上方や遠国筋農民の徒党や強訴の取り締まりを命じる程であった。田沼意次が徳川家治の側用人となる一方で、鷹山が米沢藩の藩政改革に着手した頃であった。鷹山の改革は、江戸家老の竹俣当綱や藁科松柏、後の中老莅戸善政等のブレーンを擁して着手されたが、重定の頃からの側近であった譜代の老臣・保守派と改革派の竹俣当綱等が対立し、反乱(七家騒動)を起し、改革中止を迫る難儀に遭遇したのであった。安永二年(1773)六月、藩主鷹山に提出された七人の重臣の署名による「言上」であるが、四十五条からなる訴状で「改革を推進する竹俣当綱」への弾劾を含む、改革の政策が誤りであるとする内容であった。いつの世も改革には推進派と反対派(革新対保守)の確執はつきものである。譜代の老臣達からみれば、改革はこれまでの政治手法を否定され、尚且つ人事面でも冷遇されるのが常で、それらは当然不満となって表れる。そうして、七家の代表二人が訴状を持って本丸の鷹山に謁し、即刻に訴状への裁断を迫った。この背景には「米沢藩の極端な財政窮状」があり、この改革を断行しない限り藩が立ち行かなくなるという、危機的状況への対処が必要であった。事実、鷹山が藩主となる直前には「藩」を返上する意見が重臣たちで真剣に話し合われるという事態にまでになっていた。藩主もその覚悟であったと言われ、領地は荒れ果て、農民は逃亡するという深刻な藩政危機の状態にあった。こうした危機に対処するために、鷹山による改革の断行が行われなければならない切羽詰まった窮状があったのである。したがって、保守的な老臣達による、それまでの政治を改革しない限り、この窮状からの脱出は困難であった。その改革グループが「青莪社」を中心とした好学の士たちの集まりで、竹俣当綱、藁科松伯、莅戸善政という鷹山の側近にある人達であった。

170309父は上杉鷹山を称賛記事キャロラインケネディ

此れを年代順に整理してみると次のようになる。便宜上西暦表示とします。
上杉家への養子内約(1759・九才)、上杉家桜田邸へ移る(1760・十才)、竹俣当綱江戸家老(1761・十一才)、森平右衛門殺害と領土の幕府返納問題(1763・十三才)、家督(1767・十七才)、同年米沢春日社に誓文、大倹執行の誓詞、宿老との対立顕在化、米沢初入部と竹俣町奉行、藁科死去(1769・十九才)七家騒動(1773・二十三才)となる。そして三十五才で隠居(1785となり)、先代の嫡子治広に家督を譲る。此の時、有名な「伝国の辞」を書き与える。将軍家斉、在職中の善政を賞す(1787・三十七才)、以後隠居で後見役として藩政改革の継続。1822(文政五年)に七十二才で死去。このように、上杉鷹山の藩政改革・財政再建は「藩主として」、「後見役として」の二度にわたる、息の長いものであった。

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