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『上杉鷹山』ー米沢藩の再建者②
【2017/03/08 18:17】 エッセイ
「上杉鷹山」②

上杉鷹山が米沢・第九代藩主の家督を継いだ頃は、各藩とも「幕藩体制」の統治機構が現実と乖離して、新たな「藩政改革の努力」が強いられる時代であった。肥後熊本の「細川重賢」、奥州白河の「松平定信」、出羽秋田の「佐竹義和」などが中期の藩政改革を断行した名君として知られる。当然、上杉鷹山はその筆頭格である。江戸期の経済は原則として「米」を中心としたものであった。「農業は治国の本」でありながら、その「本」である農村が疲弊していたのは、時代の変容に十分な対応努力がなされていなかったのであった。従って、藩政の喫緊の課題は「農業の振興策」であったが、この頃から百姓が二極分化を来すようになっていた。「本百姓」と「つぶれ百姓」という現実となって農村人口の減少を招いたのである。「米沢の領民」は疲弊しきっていたのであった。それは、江戸開封当初の三十万石であったものが、寛文四(1664)年に、藩主の綱勝が急死して半知削封という不運に遭遇して、なお家臣はそのままの人数を保持して農民にしわ寄せを行ったことから窮乏を招いたのであった。

現代でもそうだが、「国力」と「人口」は不可分の関係で捉えなければならない。藩の
財源は「米」である。鷹山が「倹約令」とともに「農村復興」に最初に取り組み、農村人口の増加を目指したのも、統治の基本が何であるかを知悉していたので農村再興から手を付けたと考えてよい。安永元(1772)年に白子・春日神社に参詣の後、田地開墾の儀式である「藉田の礼」を行った。
170309上杉鷹山藉田の碑


これは藩主が自ら先頭に立って、農耕の重視をしているということを示し、開墾を奨励する狙いがあるわけである。藩主に続いて、家老以下の重臣、とくに農業政策にかかわる、藩政関係者が参列してそれは行われた。古代中国の周の時代に皇帝が行った儀式にもとづくものであるが、鷹山の率先垂範の思いが込められたものであったろうし、儀式のあとの「御神酒」が、御奉行以下農民にも振舞われたという。そして行政レベルでも農村支配機構を整備拡張して、改革を推進する体制を整え、さらには水不足を解消するために「灌漑用水」を確保して水田面積を拡大するため、黒井堰の造成と飯豊山穴堰の掘削を成し遂げた。こうした藩を挙げての土木技術を駆使しての農業振興策は、やがて実を結ぶこととなる。

もう一つの改革の柱は「殖産興業政策」であった。農民がコメの生産に勤しみながらも、生活維持のために家計の安定を期した「副業」も導入したのである。これには二重の意味があって、領主的商品経済の拡充をも視野に入れた、農民の家計維持策と藩財政の好転が期されているのである。それは、漆、桑、楮などの増殖であった。一般に「百万本政策」とも言われる、藩を挙げての植樹の奨励である。これはやがて「特産品」として藩財政の立て直しに貢献するばかりでなく、「幕府からの藩経済の自立」につながって行く。実はこうした藩政改革の努力は反面では幕府に頼らない自治政策として、幕府との一定の距離を置くことになった。後年、天保から幕末にかけて「経済力」を獲得した藩が台頭し、明治維新の遠因をなすことに至るのであるが、鷹山自身はそこまでは視野に入っていない。

そうして鷹山は天明五(1785)年、三十五歳の若さを以て家督を先代の重定の嫡子に譲るのである。そこには、改革はまだこの時点では大きな成果を見ていないが、こうした早過ぎるかのような隠居は今後も継続させるとの意味合いが込められていた。従って上杉鷹山の藩政改革を語る場合、一般的には「前期」と「後期」に分けられるが、その前に有名な「伝国の辞」を見ておく必要がある。これは鷹山の政治理念、国家観、藩主としての心得を藩内に宣言したとものといえるが、現代人である私達が読んでも、そのまま首肯できるものである。本来は、家督を治廣に譲るに際して与えられたものであるが、多くのものを私達に教えてくれる内容である。簡略であるので、読み下しで記します。

170309伝国の辞の碑


一、 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものには之無く候。
一、 人民は、国家に属したる人民にして、我私すべきものには之無く候。
一、 国家人民の為に立てたる君にて、君の為に国家人民には之無く候。
 右三条、御遺念有間敷候事。
天明五年巳年二月七日                   治憲花押
  治廣殿  机前


こうして、鷹山は先代藩主・重定の子である治廣に家督を譲ると同時に、この訓示三ケ条を書き与えたのであった。さらに、世子御傅役には鷹山自身の御側役であった木村丈八を当て、世子補導を託しながら藩主の後見をすることになる。「米国大統領・ケネディ」が尊敬する日本人に上杉鷹山を挙げたのは、おそらくこの「伝国の辞」の意味するものを知っていたのに違いない。現代の政治家と自認する人達は、全員がこれを学ぶべきだと思う。

藩主の座にあること十九年、三十五才での隠居はいかにも早い印象があるが、これは鷹山一代での「藩政改革」でなく、常に改革の精神で「米沢藩」ひいては、「上杉家」の永続を願ってのことと解すべきであろうと思われる。「藩主」たるもの、人民を大切にしなくてはならないというのが鷹山の政治哲学でもあった。まさに、リンカーン米国大統領の「人民の、人民による、人民のための政治」に先立つ政治哲学であったと云える。事実これを裏書きすかのような美談(逸話)が残されている。
170309上杉鷹山立像


「老婆の手紙」として、これもまた有名なピソードなので記して紹介することにします。これには、前段としての説明が必要なので、まずそれを記します。安永六(1777)年九月、御城の北門に老女が見えて、約束した「刈り上げ餅」を献上に持参したので、御台所へ行かせて欲しいといい、「福田餅」一包を持ってきた。その訳を聞いたところ、殿様が夕方、老たる嫗が忙しく稲の取り入れをしているのを見て、家中のふりをして、自らこれを手伝ってくれた。そして手伝えば刈り上げ餅でも貰えるかなと戯れに云うので、老婆はそれが殿様とはつい知らず、その約束通り届けたところ、鷹山はこれを受け取り、金子等を与え、礼を尽くしてくれたという。このことに関する農婦の手紙が残っているので、全文を記します。

 一フデ申シ上ゲマイラセ候、アレカラオトサタナク候アイダ タツシャデカセギオルモノトオモイオリ候 オラエモタッシャデオル アンシンナサレタク候 アキエネノザンキリボシシマイ ユーダチガキソウデ キヲモンデイタラ 二タリノオサムライ トリカカッテ オテツダイウケテ カエリニカリアゲモチアゲモウス ドコヘオトドケスルカ  トキイタラ オカミヤシキ キタノゴモンカラ イウテオクトノコト ソレデ フクデモチ 三十三マルメテ モッテユキ候トコロ オサムライトコガ オトノサマデアッタノデ          
コシガヌケルバカリデ タマゲハテ申シ候 ソシテ ゴホウビニ ギン五マイイタダキ候 
ソレデ カナイジュウト マゴコノコラズニ タビクレヤリ候 オマイノコマツノニモヤルカラ オトノサマヨリハイヨーモノトシテ ダイジニ ハカセラレベク候 ソシテ マメニソタテラルベク クレグレモネガイアグ候
一二かつ六か                          トウベイ
                                ヒデヨ
   おかのどの
170909上杉鷹山老婆の手紙


この手紙は、トウベイ・ヒデヨがおかのという女に宛てて書かれたものだが、全文がカタカナ文なのと、米沢独特の言葉が使われているので、現代語に置き換えてみる。

稲仕舞の忙しい夕方、夕立が来そうで気をもんでいるところへ、二人の武士が通りかかり、手伝ってくれた。御礼に「刈り上げ餅」を拵えてお届けしたいので、どこへ持参したらよいかと聞いたら、御上屋敷の北門へ云っておくとのこと。それで「刈り上げ」の日に福田餅を三十三個届けに行ったら、あの時のお侍が、実は「御殿様」だったので腰が抜けるほど驚いた。そのお礼に銀五枚を頂いた。そこで家中と「孫・子」残らず「足袋」を買ってやることにして、宛先(お前)の、おかのの孫マツノにも差上げるから、お殿様からの拝領物として大事に使って欲しい。という程の意味である。

これは、上杉鷹山の「民を大事にする」逸話で、後期の改革で中心人物となった「莅戸善政」の著述になる、鷹山の言行録『翹楚篇』に書かれている。心温まる逸話である。鷹山はこのほかに養蚕も隠居所で行い、後に国産品の第一となって絹織とともに重要視されたようである。こうした改革事業の中心は「青莪社」グループの人達で、鷹山の幼い頃の侍医であり儒者でもあった藁科松柏とその繋がりの人達であった。前半は「江戸家老」にあった竹俣当綱、後半は「中老」として鷹山の信頼の厚かった莅戸善政をはじめとする人たちが推進したのである。「百万本」の植樹は作家の藤沢周平の『漆の実のみのる国』という小説のタイトルのように、米沢の殖産興業の一環として、やがて藩の財政を好転させるだけでなく、領民を慈しむ藩政の成果となるわけである。江戸の本草学者を招いて、医師や藩士に薬草学を学ばせ、一方では藩営の「縮織業」を導入し、青苧の栽培や織物の指導者を「小千谷」から招くなど鷹山の藩政改革は長く善政の模範となった。将軍家斉から老中の連署を以て幕府から賞されたのもこうした「改革の努力」の成果と考えられる。

鷹山はまた学問の奨励も行い、「細井平洲」を招聘して学び、数度にわたり米沢にも足を運ばせ、家臣や領民と共に活用したことで知られる。細井平洲を米沢で迎えるにあたっては、鷹山自らお城の郊外まで迎えに出向いたという。普通の藩主としては及びもつかない行動であり、学問や師を尊敬する態度はまことに謙虚であったと伝えられている。

170309藁科松伯の墓170309平洲の米沢招聘170309米沢興譲館170309米沢興譲館創立碑


今日でも、歴史的な伝統校の「米沢興譲館」は細井平洲の命名になるものです。江戸期の「藩校」は中期以降に各藩とも創設されるが、これも学問によって藩政を改善に向かわせるための、人材を養成する目的もあったようである。
南九州の小藩から、名門上杉家を継ぐにあたって書き与えられた「訓戒書」を常に携行して、存続を危ぶまれた「米沢藩」を見事に立ち直らせた上杉鷹山。江戸期を通じて「名君中の名君」と称えられるのも、この様な継続する努力と領民を大切にし、「民と共に藩財政を蘇生」させた手腕や「鷹山精神」は現在にも生き続けていると思われる。現代の合理主義的精神と、儒教の教示を見事なまでに実践した「出羽・米沢藩主」、上杉鷹山に学ぶことは汲めども尽きないものがあります。
『為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり』との名言を遺した上杉鷹山、困難に立ち向かう藩主としての使命感を味わいながら私達は学び続けることが肝要との思いを強くするのです。
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