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『高杉晋作』―松下村塾の星ー
【2017/03/08 18:44】 エッセイ
『高杉晋作』ー師松陰の教えー

後年「幕末の風雲児」とよばれて、疾風のように時代を駆け抜けた男『高杉晋作』。
萩藩の格式高い良家に生誕し、一人息子の為もあって我儘放題に育てられた。
まず、その生涯の略歴から書いて見よう。
天保十年、萩藩大組士(馬廻り格ともいう、200石)、高杉小忠太の長男として、菊屋横町に生誕。母も300石大組士の出身であるから」、順調に育てば、萩藩政府の要職に就いて、藩主の側近に成れる家柄である。平たく言えば「高杉の御曹司」ということになる。ここが高杉の不思議なところであり、また人気を齎す所以なのかもしれない。
150101高杉晋作150331『留魂録』徳間150625松陰と幕末明治の志士たち 小

高杉家は「毛利元就」以来の、純然たる譜代の家臣である。高杉のエポソードには、「誇り高い」ものが感じられることがあるが、それはこのような「れっき」とした毛利のエリート藩士の誇りによるものであると考えられる。
後の事であるが、吉田松陰の主宰する「松下村塾」にあって、高杉の家柄は別格であった。それは、石高によることもあるが、これは相対的なもので、あまりあてにすると間違いが生じる。藩主との関係が大事なのだ。高杉家は代々「藩官僚」として、重要な職務を担当する家柄である。げんに、父親の高杉小忠太(春樹)は一貫して、藩の重要ポストについている。即ち、「小姓役」・「配膳役」・「小納戸役」・「奥番頭」・「直目付役」といった役職を歴任している。この家柄が、時に高杉晋作の誇りになり、反対に、父親の保守性に悩まされたり、吉田松陰との接触を忌避されたりと、他の塾生とは際立った違いを見せている。

160621松下村塾塾舎

このあたりの事情を、塾生仲間に書いた「僕、一人の愚父を持ち居り候。日夜、僕を呼びつけ俗論を申し聞かせ候。僕も俗論とは相考え候えども、父の事ゆえ、いかんとも致し方御座無く候。恥じつ憂えつ此れ迄諸君と御交わり申上げ候。」と、仲間達と思う様に行動を共に出来ない悩みを打ち明けているのである。名門の父親としては、一人息子の晋作が、多くの批判のある危険な政治活動を認めたがらない、特殊な事情がったのである。久坂玄瑞と並んで「松下村塾の双璧」と目されていただけに、このジレンマは晋作にとって辛かったに違いない。


翻って、高杉晋作自身は「毛利藩」において、どんなポストに就任したか、書いて見よう。全て吉田松陰が刑死してからのことである。「明倫館都講暫役」・世子の「小姓役」・「学習院用掛」・「奇兵隊創設命令と総督」・「政務座役」・「奥番頭役」・「四国連合艦隊停戦講和交渉の正使」・「海軍御興隆御用掛」等々、煌びやかで、多彩をきわめる経歴である。此のほか、上海行き、蒸気船の無断購入、志士活動として英国公使館焼き討ち、亡命、謹慎等々縦横無尽の勝手放題に見える行動をしても、打ち首になるどころか、ここ一番には必ず高杉の活躍の「場」が与えられる。そして最後の極め付けは「功山寺挙兵の藩内クーデター」と「四境戦争」の小倉口の総指揮官である。この勝利は、高杉なくしては起り得なかったのではないか。こうした高杉の決断と行動力は他の追随を許さない。これが、高杉晋作という人物の人気の秘訣であるかもしれない。
神出鬼没とういう言葉を地で行っているかのような行動経歴である。

まさに「暴れん坊」のイメージである。吉田松陰が、高杉の教育を巡って桂小五郎と話し合ったことがある。これは、村塾内の仲間達から傲慢であるとして浮いてしまったことの善後策を話し合ったのであるが、松陰は「欠点を矯正するよりも有り余る才能と長所を伸ばすべきである」との立場を取った。加えて「10年後に國家の大事をなす時は、僕は高杉に諮る」と言って、桂を説得したことでもわかるように、才能・能力が抜きんでていたエピソードを示すものと云えるだろう。松陰が高杉の頑固さを「陽頑」と評して、同様に期待をした吉田稔麿の「陰頑」と対比したのである。毛並みの良さが、陽気であったというべきなのだろう。

この吉田松陰と高杉晋作の関係は「吉田松陰なくして高杉晋作なし」といえる。確かに、高杉の才能を見出したのは、松陰の慧眼であった。「出会いの妙」を大きく開花させたのは、師としての吉田松陰であった。こういう所に松陰の「非凡」な眼力があった。同時に、天分としての高杉の才能を存分に引き出した「教育者としての松陰」の偉大なところといえるだろう。それゆえに、「明治政界の指導者」を多く輩出したともいえる。
170309高杉晋作功山寺挙兵170309功山寺



同時に高杉の松陰先生を信頼すること「一方ならぬもの」があった。松陰の刑死する二ケ月程前に「丈夫(武士)死すべきところ如何?」と高杉が問うたのに対して、松陰は「死して不朽の見込みあらばいつでもしぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」と答えている。
だから、高杉は、武士としての体裁は構わずに、逃げるべき時は逃げた。反対に、命を懸けた乾坤一擲の時は、将に生死を度外視して敢然と権力にも立ち向かったのである。
一見、破天荒な人生に見える晋作の生涯は、実は師の松陰の教えをしっかりと守って行動したのであった。
後輩の伊藤博文の書いた「墓碑銘」に見られるように「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如く衆目駭然、あえて正視するなき・・・・・・」は、晋作の行動の人としての真骨頂であったのであろうと思われる。たられば・・・・・・というのは、歴史に禁物だが、高杉晋作が元気に明治の世を見届けたら、と思うのである。
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