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『将軍になれなかった松平定信』―悲劇の宰相ー
【2017/03/08 18:58】 エッセイ
『将軍になれなかった松平定信』     ―田沼意次の将軍職阻止ー

私達は松平定信を「寛政の改革」を断行した人物として、日本史で勉強して知っています。
この定信は、実は徳川第八代将軍「吉宗」の孫になります。
従って、定信の「寛政の改革」の目指したものが主として「享保の改革」に範を置いたものでありました。
160229松平定信160229田沼意次160229徳川吉宗
だが、この二つの改革の間にはおよそ半世紀の時間的隔たりがあります。
徳川時代は1603年の家康の征夷代将軍に就任したのが、その幕開けであることは日本史の定説になっています。反対に終わりは何時かとなりますと簡単に断定できませんが、一般的には1867年10月の徳川慶喜の「大政奉還」を表明した時か、同年の12月の「王政復古の大号令」を以て終焉とするのが一般的です。

この間実に264年もの長きにわたって「徳川政権」が続いたことになります。

これは世界史的にみても稀有なこととされます。ですから徳川吉宗の治世の後半期がその折り返し地点になります。
和暦でいうと「享保」年間です。この翌年の1736年は元号が改まって「元文」となります。つまり、徳川政権の折り返し地点の頃から幕府はその政権維持政策としての改革や、修正の手入れが必要になってくるわけです。それは時代の変化に対応する政策の導入ということばでいいあらわすことができます。そうした意味からは、時代の転換点はまさしく享保の改革と寛政の改革の中間点に位置します。それは米を中心とした国家経済の運営手法が、時間の経過と共に現実と乖離してしまう現象が徐々に拡大して来たからともいえます。ことばを変えていえば「米経済」の政策が行き詰まったとも言うことが出来ます。
徳川期は「士農工商」とい身分階級の固定した時代でしたが、元禄年間(1688~1703)の頃から町人(商人)が台頭してきて治者階級としての武士を圧倒するようになってまいります。この背景には農業生産の技術改良や平和の打続く時代に、人々の生活が贅沢になってきたという事情があります。
米の生産性向上によって「貯蓄」という概念が発生して来ました。
また贅沢志向には金銭的なものへ「価値」を置く生活形態への変化がありました。なおかつ、米は毎年生産高が一定しているとは限りません。豊作の年もあれば不作の年もあります。それにもかかわらず領主(徳川家や大名)達は、安定した年貢収入を確保する必要に迫られているという現実があります。これが「定免法」と言われる、一定の安定的な財政収入を確保するという年貢の徴収方法です。
一方、年貢を徴収される百姓も工夫を凝らしたから、いわゆる新田開発による増収や、さらには「隠し田」といって此の「定免法」の実施に対する知恵比べになります。同時に、殖産興業政策による特産品の製造販売を目的とした「商業化」も拡大して来る世の中になりました。
170309十代将軍徳川家治

この徳川吉宗と松平定信の間に位置したのが「田沼意次」政権でした。御承知のように田沼時代は「重商主義」政策を採用したことでも、江戸期に在っては異色の政権でした。反面、賄賂が活発に行われました。
「礼節」としての贈呈と、「利」を求めての贈呈は金銭的に換算すれば雲泥の差を生じます。この結果世の中の風紀が商業主義の風潮の蔓延や紊乱となって参ります。
徳川吉宗時代の「米」経済中心から、「商業」に重点を置いて「運上金」や「冥加金」の名の下に台頭してきた商人層からの「税金徴収」によって財政収入を確保する方向へと時代が動いていきます。
そして松平定信は此れを否定する形で「享保の改革」の精神に返れ、というのを合言葉に幕府政治を運営しようとします。
この田沼意次と松平定信の「不仲」は有名でありまして、御三卿の一つである「田安家」に生れた松平定信は当然将軍になる資格を持つ家柄です。しかも徳川吉宗の孫です。これが田安家の御家の事情もあって、うまくかみ合わないのでした。
実は定信の兄に治察(はるあき)という人物がいまして、此の人が当時の田安家の当主を継ぐ立場にありましたが、残念なことに病弱な人でありました。田沼意次は田安定信の評判が高いのをよく知っていました。
吉宗に続いた第九代の将軍は徳川家重であり、その嫡子であった第十代将軍の徳川家治の二代にわたって権力者の地位(老中等)にあったのが田沼意次です。田沼はここで一計を案じます。どうしたかというと、奥州白河の松平家に定信を養子に出してしまうのです。


170309家治嫡男家基の暗殺

田安家の当主の可能性(治察が死去した場合)があった定信が、治察が健在なうちに養子に出してしまおうという作戦です。
これを将軍命令という形にしましたから定信も不本意ながら従わざるを得ません。一体に松平定信という人は「清廉潔癖型」の人物でありました。
名門の家柄に誕生し将軍後継資格もあり、頭脳明晰の評判も高い人物を将軍にさせないためには田安家から白河松平家に養子に出すことを将軍命令で行えば定信の将軍就任の可能性は消滅します。
こうすることによって、反対に田沼意次は自分の権力者としての地位保全が図れることになります。
そこに「一橋治済(はるさだ)」という人物が絡んできて、現代にも時々見られる「人間関係」による派閥争いみたいなものが演じられます。
十一代の将軍は徳川家斉(一橋家から徳川宗家を継いだ)ですが、この一橋家のルーツは田安家の弟であった宗尹(むねただ)で、どちらも徳川吉宗の子供です。つまり兄弟の関係にあって、田安宗武の家が一橋家の兄になる立場だったことから、将軍継嗣権の順位は一番が田安家となるわけであります。
家斉の父である治済という人は大変に個性的な人物でした。もっと具体的に言うと「政治的な手腕に優れた」クセ者であったのです。この人が徳川家治の後継者がいないのに付け込んで自分の子供(家斉)を十一代の将軍に就任させるために暗躍します。
したがって田沼意次と一橋治済と松平定信の三者の人間関係は非常に微妙なものがあるのです。

170309一橋家の天下
権力者の座を巡って陰に陽に駆け引きが行われ、最終的には一橋治済が一番「トク」をする立場を貫きます。
半世紀に及ぶ将軍や大御所として徳川の頂点に君臨した、十一代将軍「徳川家斉」の父親として、最も要領のよい立ち回りをしたのが「一橋治済」という「黒幕的立場」にあった人でした。
意次が自分の子息で「若年寄」に出世していた意知が、私怨から江戸城内で殺害されたのを機に権力者としての終末、つまり凋落してしまいます。この突然の凋落にはいろいろな事情が重なっていたようです。
一説には風紀紊乱、公私混同、賄賂政治の悪弊などがその原因とも言われていますが、治済はいち早く「御三家」の一つである「水戸徳川家」の藩主に、次期宰相(老中)候補に「松平定信」が望ましいとの書簡を出します。水戸の徳川家は、同じ御三家の尾張や紀伊の徳川家と相談してその提案を受け入れます。従って、松平定信は通常の経歴(役職経験)を経ずに、いきなり「老中」の座に座ります。勿論その背景には「白河藩主」として名君の名に値する治績があったこともありました。
こうして定信の「寛政の改革」が老中就任とともにスタートします。

第一目標は田沼時代の末期に起きた「天明の大飢饉」や「打ちこわし」といった事件が暗い影を落としていたので、これを克服することでした。寛政の改革が吉宗の享保の改革に範を求めたといっても、時代背景が異なりますから、まず「社会秩序」の安定化を図ることが喫緊の課題でした。ですから寛政の改革は別名、今日でいうところの「社会政策」的な性格が濃厚な改革となりました。将軍の家斉が幼少ということもあって、定信の肩書きは「将軍補佐」がつきます。

3根室に大黒屋光太夫等を護送して通商を求めたラクスマン4松平定信がラクスマンに与えた信牌7 エカテリーナ二世肖像3ラクスマン一行樣来航図170309ラクスマンの肖像写真



この時代は、新たな問題が次々と発生したことでも知られ、ロシアの南下政策としての「ラクスマン」の通商要求という、これまでの徳川政権下では起きなかった問題が起きました。また京都の朝廷では「光格天皇」の尊号事件という新たな問題も発生しています。西洋船の日本近海に表れる機会が次第に多くなってくるのもこの頃からです。
「内憂外患」というのは、天保年間に水戸の徳川斉昭が云い出した造語でしたが、実は既に1790年代からこうした状態が始まりました。そんな経緯もあって、松平定信は情熱を失ってしまったのか短期政権となってしまい将軍補佐や老中を辞職してしまいます。就任が1787年(天明七年)で、辞職(解任)が1793年(寛政五年)ですので足かけ7年間の短期政権でもありました。
ただ、定信政権を支えた同僚だった人物が幕閣に多く残っておりましたので定信の政治遺産は彼らによって引き継がれたので、短期政権だったというのは当らないかもしれません。和暦でいうと文化年間(1804~1817)の半ばころまで続いたようです。

ここで最後に一橋治済の事をもう少し書いて見ます。彼の人生は宝暦二年(1751)に誕生し文政十年(1827)の死去でありましたから、76歳の長寿を保ったことになります。つまり、松平定信が将軍補佐を解任(1793)されてから30年以上生き抜いたわけです。こうしたこともあってか、一説によると定信の辞任の原因の一つが「一橋治済」の「大御所就任」にあったと言われています。
定信の父である田安宗武は将軍家重の弟ですが、家重が言語不明瞭であったことから将軍職を継がせるべきでないと言ったといわれ、そのために吉宗から謹慎させられた経緯がありました。
その宗武の子息である定信もまた「将軍の座」の一歩手前に在りながら、ついに徳川将軍になれなかったという非運に見舞われました。それかあらぬか、定信は自分の書きのこした書物で「田沼意次」を二度も殺害しようと思って「脇差」を準備していたという事を告白しています。この二人の不仲は将に怨念の関係に在ったのでした。そこに「クセ者」の一橋治済が絡んで利害が錯綜し、複雑怪奇な裏面史となったというわけです。
今日は、あまり知られていない珍しい話を書こうっと思って、こんな話題を取り上げてみました。
次回は、ライバルであった田沼意次の知られざる素顔でも書いて見ようかと思っています。

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