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『兵学者だった吉田松陰の生き方』
【2017/05/02 21:42】 エッセイ
『独立不羈三千年の日本国を想う吉田松陰』

吉田松陰は「志」に生きた人であった。安政六(一八五九)年十月二十七日「政治犯」として幕府から処刑された。数え年で三十歳の若さであった。松下村塾の第三代目に当たる主宰者として多くの俊秀たちを育成し、処刑前日に書き上げた『留魂録』で門下生や「江戸獄」での同囚であった志士たちも含め、後事を託して潔い最期を遂げたと伝えられる。『吉田松陰全集』(大和書房刊)に、下総佐倉藩の「依田学海日記」や、伊勢の世古格太郎の著になる『唱義見聞録』からの抜粋で吉田寅次郎、長州藩の公用人として幕府評定所での判決に立ち会った小幡高政の談話や吉田松陰の処刑を行った本人(山田淺右衛門)の後日談など、幾つか収載されている。それによると世古格太郎のみが、潔い最期に疑問符のつく表現になっているが、他の三著は具体性があり、処刑前に松陰が書きのこした親族や門下生への遺言、絶筆や辞世の句などとの整合性を勘案して見ると、やはり潔い態度であったと思われる。それは、自分の志で精一杯生きたという自分なりの達成感がそうさせたのであろうと思われる。それ故「死罪申渡し」の判決の後に朗朗と辞世の句を謳いあげ、評定所の関係者たちが「粛然として襟を正す」といった雰囲気が評定所内に醸し出されたという。さらに刑死に臨んできちんとした礼儀正しい態度で、関係者に挨拶を行い、従容として死に就いたと伝えられるのは多くの松陰の伝記が記すところである。

170331正装の吉田松陰170503玉木文之進170503日本国地図

江戸期の武士は長子相続を原則とした。松陰も父の杉百合之助と母たきの次男であり、兄の梅太郎が健在であったことから、早々と父の弟である吉田大助の仮養子となった。偶々叔父夫婦の間に子供が無かったこと、加えて健康を損ねていたという事情もあった。翌年に叔父は死去したので松陰は吉田家八代目の家督を継ぐこととなった。吉田家の始祖友之充は元禄十三年和漢の兵法に通じていたことから、長州藩主毛利吉廣に召され、後に山鹿流の宗家に師事して兵学を学ぶことになったという経緯がある。したがって松陰の時代は、毛利藩で北條流の多田、山本流の大西の両家とともに、家伝の山鹿流の兵学を藩校明倫館で講ずるのが吉田家の任務であった。
こうした職務であるから藩内の家格も家臣団の中核をなす「大組」に属し、それは生家の杉家より高いものとなったが、幼少の事であるから松陰は生家に同居することになる。
この辺が現代人の感覚からすれば一風変わったものと認識されるが、家督は継いだものの、独立した家庭を持ったわけではないのでこのような形となったのであった。しかし、職業選択のない時代で、身分も厳格に規定されていた江戸期ゆえにこうした例外的な措置が取られたのであった。山鹿流軍学師範を宿命づけられたために、その育成には後見人や代理教授が指名されたが、その多くは養父大助の高弟たちであった。とりわけ父の末弟であった玉木文之進は兵学者松陰の育成に心血を注ぎ、幼児に対する教育とはとても思えない程の熱血漢丸出しの厳しい教育だったようで、後年になって松陰が玉木の叔父程怖い人はいなかったと回想する程であった。いってみれば今日でいうスパルタ教育そのものであったらしく、机を挟んで体面していて、姿勢が悪いと云っては殴り、居眠りをしようものなら容赦なく体罰を加え、もの覚えが悪いと叱り、玉木家に下宿した時など、夜半に背中に机を括りつけたまま戸外に立たされたこともあったという。このような厳しい教育であったから、傍らで我が子の姿を見ていた母親が「逃げればよいのに」と涙ぐんでいたと伝えられている。五歳や六歳の童子に『孟子』を読ませたと云うから、それは教えを受ける松陰にとっては大変な負荷であり、辛い修業以外の何物でもなかったに違いない。だが「藩主への忠節心」に熱い一途な玉木文之進は、自らも山鹿流の免許皆伝であり、孟子にも造詣の深い文武両道の教養人であった。それが、藩主への奉公に尽くそうと情熱を燃やしたのであるから、その期待に応えようとする幼い松陰には相当な重圧となって、いわゆる普通の「子供時代」を過ごさなかった。松陰死後の後日談で二歳年下の妹「千代」の述懐によると、同年代の友人と遊んでいた記憶がないとのことである。
しかし歯を食いしばって厳しい修業に耐えた松陰は、十一歳の時、藩主の毛利敬親への御前講義(親試)で、居並ぶ藩の重臣たちの期待以上に見事な成果を披露する。勿論藩主も驚きのあまり「この教育担当は誰であるか」と重臣たちに問いかけたという。玉木文之進は自分が厳しい教育をした成果として満たされた感懐だったに違いない。そうして、二十歳で独立師範となるまでの数度の御前講義は全て藩主をして満足させるものであった。長州藩天保の改革を指導したことで知られる藩の先達・村田清風は、松陰の飛躍を期して持論である「四峠の論」を常々説いていた。四峠の論とは三方を連山に囲まれている萩のみでの修業でなく、広く知識や人格の陶冶を求めて江戸や長崎、或は京阪に遊学してその成果を藩主への貢献を為すことこそ肝要であるという意味である。清風の関連書にこの論は出てこないが「口碑」として、長州では広く知られる一種の教育論であった。それが嘉永三年に実現した「鎮西遊学」であり、翌年の「江戸遊学」であった。早速の鎮西遊学は平戸、長崎、熊本、佐賀に山鹿の後裔や碩学、藩校を訪ねたのもそのためである。とりわけ平戸における葉山佐内の下での修業は大きな成果となった。

160229村田清風アヘン戦争佐久間象山
修業時代に西欧国家間の盛衰の実態について説明を受けていただけに、アヘン戦争を始めとする西欧諸国の東洋進出、或はロシアの南下政策等の本を貪るように読破した姿が『西遊日記』に記されている。また師の葉山佐内は有名な陽明学者であり、『伝習録』との出会いは師が人格的にも優れた人物であっただけに松陰にとっては願った通りの誠にありがたいことであった。また、この時に水戸の会澤正志斎の著述になる『新論』にも触れる。長崎ではオランダ船に乗り船内を見物し西欧文明の一端に触れ、また江戸期の唯一世界に開かれた街の見学も怠りなく、生きた学問を目指していた松陰にとっては格好の修業機会となった。なお、江戸期に西国の十四藩は「長崎聞役」という藩の情報掛の役を持つ家臣を派遣しており、長州も「夏詰」という立場ながら蔵屋敷の設置と周辺海域警備の任務を持っていたことも付記しておこう。長崎、平戸での修業を終えた松陰は、帰路で熊本と佐賀に立ち寄り、末弟の聾唖の治癒を清正廟に祈願している。そして終生の友人となる宮部鼎蔵との邂逅を果す。鎮西遊学は松陰にとって、藩の先達である村田清風の助言は納得のいくものであったに違いない。そうして帰国を果すが、平戸での書籍が江戸からの購入であったことを知って、翌年に今度は藩主の参勤交代に随って江戸遊学を果す。江戸では長州の藩邸があり、重臣も多く勤務しているので純然たる遊学と云うわけにはいかない。山鹿流師範としての職務もこなしながら、合間をぬって碩学の門を叩き、傍、全国の人材との交流も精力的に行う。交流を重ねるうちに佐久間象山との出会いはこうした中で師弟となり、一方では仲間から長州人は日本の成り立ちに暗いなどと指摘も受けた。そして、運命の東北海防視察旅行の話が出る。ロシアの南下が津軽に上陸し狼藉を働き、津軽海峡を我が者顔で航行しているという。国防意識の高い宮部と松陰は早速、出発の約束を交わすが、直前になって過所手形の発行が出来ないことに遭遇する。これを強行(脱藩)したことから松陰の人生航路は大変化を来し、藩庁は吉田家取り潰しという厳しい罪科を課す。松陰の大成を願った藩主は「国の宝を失った」と嘆息したのはこの時の事である。そして直ちに「十年間の諸国修業」という粋な計らいを享受する。反面、水戸で会澤正志斎から親しく学び、日本の何たるかを強く認識できた事から古代史の猛烈な読書に取り組んだのであった。

170331野山獄150821松下村塾170331高杉晋作



そうして諸国修業をして、再度江戸に着いた途端に「ペリー来航」に遭遇する。夜を徹して浦賀に駆けつけてペリーの艦隊を具に観察し、西欧の文明や技術に裏打ちされた軍事力の源泉である先進国の視察を思い立つ。然し海外渡航は幕府の厳禁とする所から、ペリーの再度の来航時に下田から密航を企てるが条約締結直後のため、日本の法を犯す事は不可としてペリーは拒否する。この時をもって松陰の人生は自由を失う。藩は幕府に遠慮して親元での謹慎命令を藩獄に収監してしまう。だが、志の高い松陰はめげない。獄中に在って同囚との勉強会や、自身の猛烈な思索と読書は在獄十四カ月に六百十八冊にも上る。この勉強会で『孟子』の講義が、免獄後の松下村塾へと伏線となるのであるから、人生とはどう展開するかわからない。杉家に謹慎となった松陰は親族を相手に『孟子』の講義を完了させる。
安政三年九月、外叔父の久保五郎左衛門の依頼で松陰は『松下村塾記』を執筆、此の時点では松下村塾は松陰の主宰ではない。しかし、内容からすれば松陰の主宰者的思いが綴られているので、この直後に久保から松陰へと引き継がれたと考えてよい。仮に、松下村塾記を起点としても安政五年十二月の閉鎖までの松下村塾での教育活動は二年三ヶ月に過ぎない。幽囚の身で日本を守る悲願は直接行動が出来ない。従って、教育を通じて責任の一端を果すのが松陰の残された唯一の道であった。多くの松陰伝が「教育者」としての側面を強調するが、それは松陰のペリー来航後の難局打開のための行動からやむを得ない人生航路となったのである。後年、多くの国家指導者を輩出したが、松陰は彼らに英才教育を特別に行ったわけでなく、松下村塾記に記したように、君臣の義や華夷の弁をわきまえつつ「奇傑非常の人」の育成をめざし、『学は人たる所以を学ぶなり』として学問への取り組みを奨励したのであった。松下村塾主宰中に書き遺した文稿は迫りくる外圧の難局打開の論策が多いのは兵学家として当然であったが、塾生に対しては問題提起として生きた教材となった。

幕藩体制下にあって松陰は陪臣の身である。一陪臣が国策を公的に論ずることは内容の正否にかかわらず、幕府は厳禁としていた。従って京都の梁川星巌に送った『対策一道』や『愚論』、『続愚論』等の論策が梁川宅に捕縛に向った幕吏によってそれが幕府に押収され、松陰の政治犯扱いが確定的になる。それは安政五年八月のことであった。なお吉田松陰が攘夷論者と理解されることが多いが、松陰は本来開国論者であった。富国強兵の実現によって西欧諸国に対する独立不羈の貫徹を願っていたのであるが、ペリーの砲艦外交や幕府の軟弱な対応策への批判から攘夷を唱えたもので、皇室を中心とした新たな国体の実現を模索していたのである。従って安政五年七月の『大義を議す』の論稿で、無断勅許での条約調印を激しく批判して『天勅に反き、外、夷狄を引き、内、諸侯を威す。・・・・・・征夷は天下の賊なり。今措きて討たざれば、天下万世其れを何とか謂はん』と、公然と討幕を唱えたのであった。国の為政者たるもの「義を正し、道を明らかにすること」を怠ってはならない。独立国を全うするため、松陰にとっては『勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義なり』であって、ここに天朝を尊崇して義や道を明らかにしない幕府は討滅してもやむを得ないとする松陰の国家観があったのである。それにしてもさすがに兵学家である。周到に後継者を育成し、国の将来を門下生に托して「志の継承」を願いつつ波乱に富んだ生涯は、今なお私達をして感動させずにはおかない。
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