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『三月二十七日夜の記』 ー回顧録付録ー
【2017/05/06 18:59】 エッセイ
『三月二十七日夜の記』(回顧録付録)
安政(一八五四)元年十一月十三日

先書の高教に云はく、「汝獄に下る、国に於て何ぞ益せん」と。此の言頂門の一針、瑟縮(ひっしゅく)地に入らん。併しかくいへば朱雲の張禹を斬らんことを請ひ。胡銓(こせん)の秦檜を斬らんことを請ひ、而して一は自ら後復た仕えず、一は辺裔におとしい貶竄(へんさん)せらる、亦何ぞ漢・宋に益せん。故に赤穂義士は讐を復して死を賜ひ、白夷・叔斉は暴を悪みて餓死す、亦何ぞ益せん。故に君子はかくはいはず、聖人は百世の師なり云々と云ふ。且つ弟が輩の為す所、朱・胡がする所に比すれば、頗る万全を期す。然れども事敗れてここに至り師は天なり、命なり。是れを以て議せらる、亦何ぞ多言せん。但だ僕が事発覚の曲折は人多く知らざるべし。因って三月二十七日の記を作り、高鑒(こうかん)を希ふのみ。

三月二十七日夜の記
三月二十七日、夕方、柿崎に海浜を巡見するに、弁天社下に漁舟二隻浮べり。是れ究竟なりと大いに喜び、蓮台寺村の宿へ帰り、湯へ入り、夜食を認め、下田の宿へ往くとて立出で、下田にて名主夜行を禁ずる故、一里隔てて蓮台寺村の湯人場へも、やどをとり、下田へは蓮台寺へ宿すと云ひ、蓮台寺へは下田へ宿すと云ひて、夜行して夷船様子彼是見回り、多くは野宿をなす 武山の下海岸による五つ過ぎまで臥す。五つ過ぎ此を去り、弁天社下に至る。然るに潮頭退きて漁舟二隻ともに砂上にあり、故に弁天社中に入り安寝す。八ツ時、社を出でて舟の所へ往く、潮進み舟浮べり。


170506柿崎の海岸から漕ぎ出す松陰と金子

因って押出さんとて舟に上る。然るに櫓ぐひなし、因ってかい(櫂)を犢鼻褌(ふんどし)にて縛り、船の両傍へ縛り付け、渋木生と力を極めて押出す。褌たゆ、帯を解き、かいを縛り又押ゆく。岸を離るること、一町許り、ミシツピー舶へ押付く。是れまでに舟幾度か回り回りてゆく、腕脱せんと欲す。ミシツピー舶へ押付くれば舶上より怪しみて灯籠を降す。灯籠はギヤマンにて作る、形円き手行灯の如し蝋燭は我邦に異ならず、但し色甚だ白く心甚だ白し 火光に就きて漢字にて「吾れ等米利堅に往かんと欲す、君幸に之れを大将に請へ」と認め、手に持ちて舶に登る。舶には梯子ありて甚だ上りやすし。 夷人二三人出で来り、甚だ怪しむ気色なり。認めたる書付けを与ふ。一夷携へて内に入る。老夷出でて燭を把り、蟹文字をかき、此の方の書付けと共に返す。蟹文字は何事やらん、読めず。夷人頻りに手真似にてポウバタン舶へゆけと示す。ポウバタン舶は大将ペリーの乗る所なり 吾れ等頻りに手真似にてバッティラに連れて往けと云ふ。夷又手真似にて其の舟にて往けと示す。已むことを得ず。又舟に還り力を極めて押行くこと又一丁許り、ポウパタン舶の外面に押付く。此の時渋生頻りに云ふ、「外面に付けては風邪強し、内面に付くべし」と。然れどもかい自由ならず、舟浪に随ひ外面につく。舶の梯子段の下へ我が舟入り、浪に因りて浮沈す、浮ぶ毎に梯子段へ激すること甚だし。

170506舟で漕ぎだす松陰と金子 弁天島の絵170506弁天島170506吉田松陰韜晦の朝像170506ペリー


夷人驚き怒り、木棒を携へ梯子段を下り、我が舟を衝き出す。此の時予帯を解き立かけて着け居たり。舟を衝き出されてはたまらずと夷舶の梯子段へ飛渡り、渋生に纜(ともづな)をとれと云ふ。渋生纜をとり未だ予に渡さぬ内、夷人又木棒にて我が舟を衝き退けんとす。渋生たまり兼ね、纜を棄てて飛び渡る。已にして夷人遂に我が舟を衝き退く。時に刀及び雑物は皆舟にあり。夷人吾が二人の手をとり梯子段を上る。此の時謂へらく、舶に入り夷人と語る上は、吾が舟は如何様にもなるべしと。我が舟をば顧みず夷舶中に入る。舶中に夜番の夷人五六名あり、皆或いは立ち或いは歩を習はす、一も尻居に座する者なし。夷人謂へらく、吾れ等見物に来れりと。故に羅針等を指し示す。予筆を指し示す。予筆を借せと云ふ手真似すれども一向通ぜず、頗る困る。其の内日本語をしるものウリヤムス出で來る。因って筆をかり、米利堅にゆかんと欲するの意を漢語にて認めかく。ウリヤムス云はく「何国の字ぞ。」予曰く「日本字なり」。ウリヤムス笑ひて曰く、「もろこしの字でこそ」。又云はく、「名をかけ、名をかけ」と。因ってこの日の朝上陸の夷人に渡したる書中に記し置きつる偽名、余は瓜中万二、渋生は市木公太と記しぬ。ウリヤムス携へて内に入り、朝の書翰を持ち出で、此の事なるべしと云ふ。吾れ等うなづく。ウリヤムス云はく、「此の事大将と余と知るのみ、他人には知らせず。大将も余も心誠に喜ぶ、但し横浜にて米利堅大将と林大学頭と、米利堅の天下と日本の天下との事を約束す、故に私に君の請ひを諾し難し、少しく待つべし、遠からずして米利堅人は日本に来り、日本人は米利堅に来り、両国往来すること同国の如くなるの道を開くべし、其の時來るべし。且つ吾れ等此に留まること尚三月なるべし、只今還るに非ず」と。余因って問ふ、「三月とは今月よりか、来月よりか」。ウリヤムス指を屈し対へて曰く、「来月よりなり」。吾れ等云はく、「吾れ夜間貴舶に來ることは国法の禁ずる所なり。今還らば国人必ず吾れを誅せん、勢還るべからず」。ウリヤムス云はく、「夜に乗じて還らば国人誰れか知るものあらん、早く還るべし。此の事を下田の大将黒川嘉兵知るか。嘉兵許す。米利堅大将連れてゆく。嘉兵許さぬ、米利堅大将連れてゆかぬ」。余云はく、「然らば吾れ等舶中に留まるべし。大将より黒川嘉兵へかけあひ呉るべし」。ウリヤムス云はく、「左様にはなり難し」と。ウリヤムス反復初めのいふ所を云ひて、吾が帰を促す。吾れ等計已に違ひ、前に乗り棄てたる舟は心にかかり、遂に帰るに決す。ウリヤムス曰く、「君両刀を帯びるか」。曰く、「然り」。「官に居るか。」曰く、「書生なり」。「書生とはなんぞや」。曰く、「書物を読む人なり」。「人に学問を教ゆるか」。曰く、「教ゆ」。「両親あるか」。曰く「両人共に父母なし」。此の偽言少しく意あり。「江戸を発すること何日ぞ」。曰く、「三月五日」。「曽て予を知るか」。曰く「知る」。「横浜にて知るか、下田にて知るか」。曰く「横浜にても下田にても知る」。ウリヤムス怪しみて曰く、「吾れは知らず。米利堅へ往き何をする」。曰く「学問をする」。時に鐘を打つ。およそ夷舶中、夜は時の鐘を打つ。余曰く、「日本の何時ぞ」。ウリヤムス指を屈してこれを計る。然れども答詞詳かならず。此の鐘は七ツ時なるべし。吾れ等云はく、「君吾が請ひをきかずんば其の書翰は返すべし」。ウリヤムス云はく、「置きてみる、皆読み得たり」。余広東人羅森と書き、「此の人に遇はせよ」と云ふ。ウリヤムス云はく、「遇いて何の用かある。且つ今臥して床にあり」。予曰く、「来年も来るか」。曰く「他の舶來るなり」と。帰るに臨み、「吾れ等船を失ひたり、舶中要具を置く、棄ておけば事発覚せん、如何せん」。ウリヤムス云はく、「吾が伝馬にて君等を送るべし。船頭に命じ置けり。所々乗り行きて君が舟を尋ねよ」と。因って一拝して去る。然るにバッテイラの船頭直に海岸に押し付け、我れ等を上陸せしむ。因って舟を尋ぬることを得ず。上陸せし所は巖石茂樹の中なり。夜は暗し、道は知れず、大いに困迫する間に夜は明けぬ。海岸を見回れども我が舟見えず。因って相謀りて曰く、「事已に此に至る奈何ともすべからず、うろつく間に縛せられては見苦し」とて、直ちに柿崎村の名主へ往きて事を告ぐ。遂に下田番所に往き、吏に対し囚奴となる。ウリヤムス日本語を使ふ。誠に早口にて一語も誤らず、而して吾れ等の云ふ所は解せざる如きこと多し。蓋し彼れが狡猾ならん。是を以て云はんと欲すること多く言ひ得ず。
僕事大略かくの如し。畢竟夷舶へ乗移る際少しく狼狽す、故に吾が舟を失ふ。若し舟を失はず、又要具を携へ舶に登らば、後に心がかりなく、舶中へ強ひて留ることを得、我が文書等を夷人に示し、又舶中の様子を見んことを求め、海外の風聞などを尋ぬる間に夜は明くべし。夜明けば白昼には帰り難しと云ひて一日留まらば、其の中には必ず熟談も出来、計自ら遂ぐべし。仮令事遂げずとも、夜に至り陸に返り急に去らば、かかる禍敗には至らぬなり。其の事の破れの本を尋ぬれば櫓ぐいなき計りにてかくなりゆけり。因って思ふ、左伝某の役の敗を記して驂絓り(さんかかり)て止まるとやらあり。大軍の敗もかかる小事に因ることなり。左氏兵を知る、故に其の叙事甚だ妙なり。又思ふ、漢の李広、衛青に従ひて匈奴を撃ち、惑ひて道を失ふ、青上書して天子に軍を失へる曲折を報ぜんと欲すと。この曲折と云ふこと甚だ味あり。敗軍すれば一概に下手な様に云へどもその曲折を聞けば必ず拠なきことあるべし。後人紙上に英雄を論ず、悲しいかな。
170506蓮台寺の松陰寓居跡170506吉田松陰拘禁の跡碑


吾れ等の事、後世の史氏必ず書して云はん、「長門の浪人吉田寅次郎・渋木松太郎、夷舶に乗りて海外に出でんことを謀り、事覚れて捕はる。寅等奇を好みて術なし、故にここにいたる」と。渋木生甚だ刀を舟中に遺せしを大恥大憾とす。然れども敗軍の時は何も心底に任せぬものなり。洞春公・東照公の名将さへ、大敗群には一騎落し給ふことあり。然れば吾れ等の事も強ち恥とするに足らず。但だ天命を得ず、大事成就せぬは憾みと云ふべし。亦何ぞ益せんの譏りを免れぬ所以なり。

甲寅十一月十三日、野山獄中之れを録す、時に天寒く雪飛び、研池屢々凍る。
二十一回猛士矩方

下田にて読み侍りし
世の人はよしあしごともいはばいへ賤ヶ誠は神ぞしるらん
乙卯五月念四日                        藤寅





【解説】
安政元年三月二十七日の夜、正しくは三月二十八日午前二時頃、松陰は金子重輔とともに下田の柿崎海岸からペリー提督の旗艦ポウハタン号に乗り込み米国への出国を懇請したが受け入れられなかった。米国側の記録によると、松陰と重輔が「立派な地位の日本紳士だとは分かったが、着物は旅でだいぶくたびれていた。(中略)彼等は教養を身につけており、流暢に、また、見た眼に優雅に標準的な漢文を書いた。動作は礼儀正しく、非常に洗練されていた」(ホークス著「ペリー日本遠征記」全集別巻)と非常に好意的な見方をしており、さらに「提督は来艦の目的を知るや、自分は日本人をアメリカにつれて行き度いと思ふこと切であるけれども、両人を迎へることが出来ないのは残念であると答えた」とある。つまり、日米和親条約締結直後のことであり、幕府の許可なく同行することは時宜的に好ましくないと判断したためであろう。(吉田松陰撰集より転写)
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