長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

『明治維新を再考する』②
【2017/09/18 11:20】 エッセイ
明治維新を再考する②

明治維新は、どこにその基点を求めるべきか、学界でも色々な主張がなされているようである。
それらを列挙してみると、以下のようになる。

3ラクスマン一行樣来航図松平定信170918レザノフ



①最も早いのが、『政治史的起点』としての寛政の改革に求める考え方。
これは、寛政4(1792)年ロシア使節ラクスマンが「エカテリーナ二世」の親書を持参し、尚且つ、日本人漂流民である伊勢の人「大黒屋光大夫」の送還を兼ねて「根室」に来航し、交易を求めたことによる。
幕府は、「ラクスマン一行」を役7カ月待たせた上に、「信牌」を公布した。
これは、幕府が公式に「長崎港」に入港を許可したものとして注目される。時の幕閣の責任者、「松平定信」は、「開国を覚悟」したと伝えられる。
漸く、「海防が政治的日程に上った」という意味で、対阿外政策の変更を検討したという意味で、画期的なものとされる。
幸いにして、ラクスマンは、長崎に立ち寄ることなく帰国したので事なきを得た。然し、文化元年(い804)に、この信牌の写しを持参してレザノフが長崎に来航、前回のラクスマン同様漂流民を護送してきたのである。「人道的観点」からの、「通商拒否」が困難になるとのロシア側の作戦でもあったが、半年近くを待たせた挙句、強制退去ということになった。此の時点で、幕閣の責任者はすでに松平定信でなく、「寛政の遺臣」といわれる老中たちであった。対外政策に精通していなかったこと、海外情報が十分でなかったこと、とりわけ「オランダの東インド会社」の衰退によって、「オランダ風説書」が欧州事情を十分に伝えられなかったことも考えられる。幕府の強制退去命令に怒ったレザノフは帰国途次、蝦夷や樺太で狼藉を働き「外交上の礼儀を弁えない」幕府への嫌がらせとなって、幕府は非常な危機感を抱くことになる。以後、連続的に日本近海に船舶が現れることになる。
とりわけ、「フェートン号事件」(文化5年・1808)事件は、遠国奉行たる「長崎奉行」の切腹事件と云う、幕府の対外政策を見直すべき事件であったが、後の「アヘン戦争情報」や「フェートン号事件」、と幕府の対外政策は深刻の度を増してゆく。天保の改革という、内政の失敗によって、幕府は次第に統治力を失って行くことになる。
以下、順を追って書きついで行くことにするが、特に対対外政策の破綻を軸にしたもので明治維新の原因の一端を追ってみる。
関連記事
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://kinnhase.blog119.fc2.com/tb.php/377-3767431c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR