長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

松陰と山鹿流兵学
【2010/08/18 19:30】 エッセイ
今日は、松陰の精神的支柱となった山鹿流、孟子との関連を書いて見ました。
松陰には『師』と呼ぶ人物が二人いた。一人は「吉田家の家学」である『山鹿流兵学』の素、山鹿素行である。松陰は『先師』と呼んで尊崇し、もう一人は佐久間象山で『師』と呼んだ。5歳で叔父の吉田家の假養子となって「山鹿流兵学師範」としての人生が義務付けられた。江戸時代は「職業選択の自由」がなかった。

山鹿流兵学の伝授書
無題1
▲△写真をクリックすると画像が拡大します



ここから叔父の「玉木文之進」をはじめとする吉田大助の高弟達の「英才教育」が始まる。今日で云う「スパルタ教育」である。松陰の回想によると5歳から『孟子』を勉強させられた。したがって松陰の思想は儒学(朱子学)、とりわけ孟子であり、大きな影響を受けた。松陰の最大著作たる『講孟余話』が残されている。東北遊学での笠間、野山獄、自宅幽囚中、江戸伝馬牢と孟士の申し子のように孟士を講義する機会があった。全編そらんじていたという。

逸話によると、叔父玉木文之進の教育の厳しさは大変だった。ある夏の夜、勉強中に蚊が松陰の頬に止まった。これを掻いたのがけしからんと猛烈な「ビンタ」が何度も飛んだ。理由は次の如し。学問は「公」であって、毛利家への奉仕の為であるが、蚊に食われて頬を掻くのは「私事」である。公の仕事中に私事の所為は「とんでもないこと!」であるというわけである。母親がこの姿をみて「寅も逃げればよかろうに!」と、「お仕置き」にじっと耐える姿を見かねて発した逸話が残されているという。松陰は典型的な「外柔内剛」の人物だったようで、後年の逸話を彷彿させる片鱗が窺われます。

そして、期待に応えて『親試』という藩主への御前講義で『武教全書・戦法篇』を11歳で見事にやってのけ、藩主を驚かす。最も喜んだのは玉木文之進だったろう。
『武教全書講章』が松陰全集収載されている。その一部を書いてみます。
『兵法に曰く「先づ勝ちて後に戦ふ」。是れは孫子軍形の篇に出てをれり。言ふ心は、敵に勝つ軍(いくさ)は如何様にして勝つかなれば、戦はぬ先きにまづ勝ちてをりて、其の後に戦ふなり。それゆゑ百たび戦ひて百たび勝つなり。・・・』(全集第3巻・12頁)と、澱みなく、抑揚の効いた少年の講義はたちまち城下の評判を呼ぶ。松陰の出世の糸口であった。以後、数度の親試も全て藩主を唸らせ、藩主が松陰の弟子になってしまう。

後年、脱藩の罪で吉田家取り潰しの処罰に対し「国の宝を失った」と藩主が嘆息したのはこういう事情による。山鹿流、孟子は松陰の思想的支柱として、生涯を彩ることとなった。

関連記事
スポンサーサイト
この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://kinnhase.blog119.fc2.com/tb.php/38-aa5be408
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR