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エッセイ (382)
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江戸初期の名君「池田光政」
【2018/01/31 11:13】
エッセイ
『池田光政』
江戸時代初期の名君、池田光政(1609―1682)は備前岡山藩主の藩祖として徳川政権で安定した大名の地位を築き、そして『天下の三賢侯』として名を馳せて以来、池田氏は二世紀あまり続いて明治を迎える「江戸期の名門」といえる。
まず彼の祖父である「池田輝政」(1565―1613)は、「西国将軍」、あるいは「姫路宰相、播磨宰相」と称された人物である。関ヶ原の合戦で、東軍(徳川方)についた輝政は姫路五十二万石を与えられる。ここから池田家の近世名門大名としての出発がある。京阪地区の守りの象徴として世界遺産となった名城・姫路城(白鷺城)の大改修を行って、西国の防御の役目も担った。
彼はそれまでの主君が、織田信長、豊臣秀吉(姫路城築城)、秀頼、最後に徳川家康であったので正しく云えば「外様大名」の範疇である。それが、何故に「西国将軍」という呼称されたか。その謎を解く鍵は「徳川家康の第二女・富子」を継室としたことにある。則ち、家康が姻戚上の父親(義父)であること、これは「神君の婿」として、秀吉陣営から乖離を願った『神経質な家康』(南條幸弘・三島森田病院勤務の精神科医)の慎重かつ周到な判断による「政略結婚」によるものであった。この背景は岡山藩や藩主の池田氏研究の第一人者・谷口澄夫岡山大学教授の著書(岡山藩・吉川弘文館)に詳しいが、富子が光政の父である忠継を生んだのである。忠継の兄利隆(母は糸子)姫路藩主として残った。関ヶ原の論功行賞で家康は輝政に播磨か美濃の何れかを輝政の望みに任せたが、「老臣・伊木長門清兵衛」が、大方の美濃希望者(輝政と老臣)たちを説得し播磨の地を選んだ。そして播磨、備前(利隆の備前監国)、淡路を支配する俗称「百万石」の大大名となったのである。
さて本題の池田光政は、寛永九年の岡山移封から寛文十二年(1672)の致仕までの四十年間、藩主として岡山藩政の確立をはかったが、さらに天和二年(1682)までの十年間、西の丸にあって政治に関与したので「半世紀」もの長期間にわたって統治者として君臨し続けたのである。二代将軍秀忠の養女・鶴子を母に、勝子(母は秀忠の女・千姫)との婚儀、そして三代将軍家光の偏諱一字を賜いそれまでの幸隆を「光政」と改めた。このように記述すると将軍家と池田氏は祖父の輝政、光政ともに将軍家との姻戚関係があるので特別な待遇であったかというと必ずしもそうでなく、複雑微妙な問題が伏在していたのである。
だが、光政は幼児から「唯人ならず」の非凡さを評価されていた。
一般に徳川家康は関ヶ原に戦いに勝利して、その後「征夷大将軍」の宣下を受けて大名政策が具体化していくのであるが、普通は親藩(御三家含む)、譜代、外様と区分けし、譜代で幕閣を構成させて、外様を冷遇した印象があるが、それは実は「徳川幕藩体制維持策」であって、冷遇というのは当たらない。南條先生が「徳川家康神経質説」を唱えたように、体制維持に非常に神経を使ったのである。覇道で奪い取った天下人の危うさを極端に警戒していたのである。「三方原の敗戦」の失敗を繰り返さないために、「しかみ像」を保存したのもそれと軌を一にするものと考えてよい。そのために精巧な大名統制策をとったのである。将に「覇道は覇道によって破れる」事を知悉していたので、大藩の経済力をそぐために、江戸からの遠距離に配置し、隣接には信頼できる譜代大名や親藩に「にらみ」を効かせていたのである。
参勤交代、正室の領国への帰国不可(江戸上屋敷に常駐・人質化)、「偏諱政策」、「普請担当政策」で遠距離の外様への経済的負担を負わせたのはすべて「徳川家の長期安泰政策」であった。家康自身、大坂「夏の陣」や「冬の陣」で危険性を孕んだ豊臣氏を滅ぼしたことからわかるように、危険性の除去を意図したものであった。それでも家康は「西国の外様大藩」への危惧が去らなくて、臨終の時西方を向き、反逆の危険性におびえつつ死去したという。
果たして二世紀半経過して、海防の無策等から外様の幕政への容喙を招き、瓦解したのである。幕末維新期の西南雄藩は「薩長土肥」はすべて外様大名であった。「改易」による大名取り潰しもその一環で、武断政治により反逆を封じ込める政策を採ったのである。婚姻政策もそれで、徳川将軍家は危険と裏腹の関係であった。八代将軍の吉宗以降、改易が大きく減少したのも反逆の危険性が低下したことの表れでもある。そうした中で岡山藩政の確立に功績のあった池田光政を知ることの意味は意義がある。池田光政も「松平」を名乗る(家光の偏諱を賜る)ことが許され、将軍家との婚姻政策もその例外でない。だが、光政に見られる如く藩の新田開発や学問の奨励による「仁政政策」は、長期的には「藩の自立化」が進み幕府の統制策は「そろりそろり」と浸蝕されていくのである。幕府自身が吉宗の統治時代に「米の収穫」がピークに達し、収入の増額が限界に達していた。それゆえに、田沼政治にみられる重商主義の時代を迎えることになる。したがって、田沼政治への批判としての「寛政の改革」は吉宗の「享保の改革」への回帰指向が政策の理念となった。
こうした幕府の一連の変容過程を念頭において、岡山藩ならびに池田光政を見ることは幕藩体制確立期の武断政治下での名君と称される光政の政治が、時代に先駆けたものとして改革的な性格を持つと考えられる。まず彼の学問の修行から見ていくと、『孟子』のことばに「民を貴しと為し、社稷これに次ぎ、君を軽しと為す」ということばが「尽心章句下」に出てくる。これと関連したような逸話が光政にある。『有斐録』という本に「十四歳の頃、彼は寝所に入っても容易に眠れず、暁に及んでようやくまどろむという状態が続いた。近侍の者たちが怪しんでその理由を尋ねたが答えが得られなかった。ところがある夜から特に熟睡するようになり、再びその理由を尋ねたところ、光政はこのような大国を治め、民をいかがして養うべきかと、心をつくして思慮した結果、「君主の儒」となりて国民を教え安んずべき」を知って煩悶が解決したという。また当時の京都所司代であった板倉勝重に「治国の要諦」について質問したという。板倉が「大国の領主として寛仁の徳」が大切と教え、それを心がけたと言われる。
「道を学んで独り己を修めるのみでなく、天下を以て自己の任とし、天下を善くしようと決意した」との考えに達し、儒学を崇敬したのである。陽明学の大家、中江藤樹を招聘しようとしたのもその表れである。後に熊沢蕃山が光政に特別な待遇を受けたのも同様で、藤樹の長子も次子も岡山に賓客として招かれている。中江藤樹を尊敬すること尋常でなく、その死後は位牌を西の丸に祀ったと言われる。「寛政異学の禁」で朱子学を官学と規定する前だったが、「幕府は快く」思わなかったようである。だが信念は揺らがずに陽明学を信奉した。光政の晩年になって幕府の干渉も危険視して、謀反の風説が流れ、やむなく朱子学に妥協(転向)した形となった。そこには林家の中傷・非難も絡んでいたことは容易に想像される。
また光政は藩校設置のトップランナーとして知られ、「閑谷学校」や「花畠教場」は寛永から寛文年間の開学であった。光政は広く領民の教化策を視野に入れたもので、これも名君として称えられる理由の一つになっている。藩政の理念には「仁政によって人民に知足安分の生活をさせることが、則ち将軍への忠」と確信していたとされ、次の農政についての逸話はそれを証してくれる。領内巡検で郡奉行に稲の品種を尋ね、答えられなかった奉行に、後になって百姓に尋ねて確認したところ、百姓は殿(光政)の云うとおりと答えたので、農政の第一線の責任者の郡奉行の不勉強を嘆いたと言われる。これも単なる好学でなく、民とともに国政の充実を願った光政の人となりを偲ばせてくれる。
また外様大名でありながら、時の大老である酒井忠清に対して専横(当時下馬将軍とも言われた)を忠告する建白書「八ヶ条」も書いている。これも仁政のあり方を探求する名君ぶりだが、その一つに「高慢な態度を捨てて他人の意見を傾聴すること」というのがある。自らの藩においては「諫箱」を設置して、民の声を政治に反映させようとする努力、政治手法で後の徳川吉宗の「目安箱」の先駆けと言って良い。武断政治から文治政治への移行期とはいえ、光政の藩主としてのあり方には模範的なものがあり、半世紀後の名君「上杉鷹山」を彷彿させるものがある。
今回は池田光政の功績全体を語ることはできないが、これまでの書き綴ったなかに理想の君主像を見ることができると思う。幕府が武力を背景とした「臣従」を強いることに一方では従い、半面では仁政のあり方の不足した専権ぶりにもしっかりとした信念で忠告する諸侯は親藩の立場でも簡単にできることではない。江戸期の藩政改革を進めた名君の諸相にもいろいろあるが、初期においてこれだけの治績をあげた第一級の藩主としては、池田光政はその筆頭レベルに数えられる「名君」といってよい。
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