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文久二年の『土佐・尊皇攘夷思想』
【2018/03/03 10:01】 エッセイ
『幕末・土佐の三偉人』

JR高知駅を降りて南口を出ると、ロータリー右側に坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の大きな銅像が並んで立っている。
文久元年に結成された『土佐勤皇党』の代表的志士・三人とでも云うべきか。
結成時の領袖は武市半平太で、龍馬も慎太郎も名を連ねている。

161011武市半平太161004坂本龍馬 いきいき埼玉161011中岡慎太郎

その結成文に曰く、
『堂々たる神州戎狄の辱をうけ、古より伝はれる大和魂も今は既に絶えなんと、帝は深く嘆き玉ふ。
然れども久しく治れる御代の因循萎惰といふ俗に習ひて、独りも此心を振ひ挙げて、皇國の禍を攘ふ人なし。
かしこくも我が老公夙に此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、却てその為に罪を得玉ひぬ。
斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落人玉ひぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと、況てや皇國の今にも衽を左にせんを他にや見るべき。
彼の大和魂を奮ひ起し、異性兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一に碑補せんとす。
錦旗若し一とたび揚らば、団結して水火をも踏むと、爰に神明に誓ひ、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患者をも払はんとす。
左すれば此中に私もて、何にかくに争ふものあらば、神の怒り罪し給ふをもまたで、人々寄つどひて腹かき切らせんと、おのれおのれが名を書きしるし、おさめ置ぬ。』
文久元年辛酉八月  武市半平太小楯(以下百九十一名連署血判)。
『中公新書・武市半平太、入交好脩著』

この盟約書は文久元年、江戸において武市半平太・大石彌太郎によって起草され、それを武市が土佐に持ち帰り勤皇の士を募ろうとしたものである。
そして翌年の文久二年正月に武市は長州へ坂本龍馬に親書を持たせて派遣した。
この時長州で応対したのが久坂玄瑞であった。
龍馬はここで久坂から時勢観を聞かされ、志士として活動を始める(脱藩)ことになるのである。
その久坂が語った内容とは、次の吉田松陰の『草莽崛起論』の何たるかを語ってあまりあるのである。
曰く、
「竟に諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合の外にはとても策これなき事と、私共同志中、申し合わせ居り候事に御座候。
失敬ながら、尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も、滅亡しても大義なれば苦しからず」と尊攘の「大義」実現には、藩の滅亡も苦しからずといい、幕府や藩を否定しようとする考えにまで進んでいた。
『中公文庫・日本の歴史19、小西四郎』

これを、三年前の安政六年四月に吉田松陰が、佐久間象山の甥・北山安世に宛てた書簡と併記してみると吉田松陰の時勢観がよくわかり、長州藩の指導的思想となっていたことが解る。
曰く、
『今の幕府も諸侯も最早酔人なれば、扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし。
されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にしても忘るる方なし。
草莽崛起の力を以て近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州に大功ある人と云うべし』と。

つまり、龍馬、武市、中岡もここから考えが出発しているのである。
官僚化してしまった幕府を構成している者、諸藩の大名も幕府権力に媚びていて、陋習から抜け出せないまま己の保守に汲々としている。朝廷にあっては、公卿の時勢への認識は全く態をなしていない。
このままでは外国の侵略を受けても、他人事の世界だと警鐘を鳴らしているのである。
吉田松陰が『明治維新の先覚者』と称えられる所以である。
この思想に触れた武市半平太が、すぐさま『土佐勤皇党』結成に向けて行動を開始したことが解るのである。
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