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―明治維新で活躍した経済人―
【2018/04/26 08:33】 エッセイ
『岩崎弥太郎』

一八三四―八五 明治時代の実業家。三菱会社の創始者。天保五年(一八三四)十二月十一日土佐国安芸郡井ノ口村に岩崎弥次郎の長男として生まれた。名は敏、字は好古、維新後名を寛と改めた。雅号ははじめ毅堂、のち東山。地下浪人の家に生まれ、年少から学問で立身する志望をもち、その修業に打ち込んだ。

はじめ土佐の儒者岡本寧浦に学び、のち江戸昌平黌の儒員安積良斎の塾にはいった。その後高知藩参政吉田東洋の門人になり、安政六年(一八五九)師の推挙によって藩に職を得、十月西洋事情の調査を命ぜられて長崎に赴き、翌年四月帰藩した。慶応三年(一八六七)三月、再び起用されて長崎に行き、高知藩の開成館長崎出張所に勤務し、やがてその主任になった。弥太郎の着任は同所開設の一ヶ月後である。そして翌明治元年(一八六八)閏四月これが閉鎖された後も同地に滞在したので、高知藩の長崎貿易は、弥太郎によって行われたといってよい。彼が扱ったのは、維新戦争における勤王戦力としての高知藩の武器・弾薬・艦船・諸器械の買入れと、その資金獲得のための土佐物産の輸出であった。

弥太郎は文久元年(一八六一)に郷士の家格を得、浪人の身分を脱したが、慶応三年十一月長崎貿易での功績を認められて、上士階級の新留守居組に昇進した。明治二年正月には、藩の大坂商会(旧開成館大坂出張所)に転出し、翌三年閏十月、高知藩少参事に任ぜられ、浪華会計係の職に就き藩の大坂事務を重督した。これは彼の再興官歴であって、その出身からいって異例の進級であった。同四年七月、廃藩置県が施行され、全国の藩は廃絶し、旧武士階層の者はその封建的特権と秩禄を失ったが、官職を失った弥太郎は、実業界への転進をはかった。

これよりさき高知藩は、政府の藩営商会所禁止令により、同三年十月大坂十月大坂商会を藩より切り離し、九十九商会の名称で汽船運輸を行わせていたが、同四年廃藩置県後、弥太郎は同志と語らい、この事業を一党の立脚地として独立し、新商社の旗を掲げた。特に明治四年九月十五日であった。新会社は三川商会と称したが、これは三菱創業の意義を持つものである。その後弥太郎は社主の地位に就いた。

彼は長崎・大阪での外国商人との交渉を通じて世界経済に対する眼識を開き、また我が国の旧商人道とは異なる「近代実業」の意義と、実業家の社会的使命について新しい認識をもった。三菱が勃興するまでには、国内の汽船会社との競争があり、社名も三川商会から三菱商会、三菱汽船会社へと改称した。明治七年の台湾出兵の際、軍事輸送の命を受け、これを完遂して政府の信任を得た。翌八年内務卿大久保利通は本邦海運振興政策を実施するにあたり、弥太郎の率いる三菱会社を起用し、これに郵便物の託送と外国定期航路の開設、海員養成などの任務を委託し、合計三十隻の船舶と運航助成金年額二十五万円を交付して、会社を助成した。

郵便汽船三菱会社(八年九月改称)はこれにより国内最大の汽船会社になり、わが沿岸航運に進出した外国汽船会社を駆逐したほか、明治十年の西南戦争の軍事輸送に著大な功績を立て、政府の期待にこたえた。かくて社業の躍進により資本の蓄積に成功した持つ三菱は、漸次海運以外の事業へ多角的に進出した。その着手したものには鉱山・造船・金融・貿易・倉庫・水道などがあり、また多の企業に対する投資も行ったが、当時はまだそれらの企業は大きな発展を見なかった。

企業家としての弥太郎の特長は、国士的精神が旺盛であり、同じ武士出身の官僚が、政治上に行った経綸を、実業界に実現しようとした。彼は明治の新経済社会を建設するために、先進国の技術や経済機関の導入をはかった。為替銀行・海上保険・港湾倉庫の建設を提唱し、政府の着手の遅れるものは、自己の手でこれを作ろうとした。明治初期経済に果たしたその「建設の作業」は高く評価されてよい。

明治十四年十月の政変以後、政府は三菱抑圧方針に転じた。岩崎を大隈の金穴と見做したのと、三菱の海運独占に対する世論の反対が高まったからである。政府は公然と三菱を非難し、新汽船会社(共同運輸会社)の設立を援助して、三菱に対抗させた。明治十六年に始まる両社の競争は激烈をきわめたが、弥太郎は競争途中の明治十八年明治十八年二月七日、五十二歳で病死した。墓は東京都豊島区駒込の染井墓地にある。

没後の同年九月、両社は政府の勧告により合併して日本郵船会社を創立、三菱は海運業を閉鎖した。なお生前弥太郎は三菱商業学校と商船学校を設立し、実業教育と海員養成に努めた。商船学校は明治十五年に政府に上納し、官立東京商船学校となった。現在の東京商船大学の前身である。

【参考文献】:岩崎弥太郎展弥之助伝記編纂会編『岩崎弥太郎伝』
中野忠明著:国史大辞典より転載


『渋沢栄一』
一八四○―一九三一 近代日本に指導的大実業家。その生涯は、(一)天保十一年(一八四〇)二月から明治六年(一八七三)五月までの在郷及び仕官時代、(二)明治六年六月から同四十二年までの主として実業界の指導に力を注いだ時代、(三)明治四十二年六月から昭和六年(一九三一)十一月までの主に社会公共事業に尽力した時代の三期に大別できよう。

(一)  在郷及び仕官時代 栄一は天保十一年二月十三日、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に市郎右衛門・エイの長男として生まれた。家業は農業で、養蚕と製藍と兼業。栄一は家業を手伝うかたわら尾高惇忠について漢学を習い、文久年間(一八六一―六四)には江戸に出て儒者海保漁村及び剣客千葉栄次郎に文武を学んだ。文久三年同志と攘夷を決行し高崎城を攻略せんと計画したが、従兄尾高長七郎の説得により中止した。

元治元年(一八六四)二月、平岡円四郎の推薦により一橋家の家臣となり、慶応二年(一八六六)同家の財政充実につとめた功によってその勘定頭に抜擢された。翌三年正月、将軍徳川慶喜の弟昭武がパリ万国博覧会に列席するのに扈従して外遊。フランスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪し、彼地の進んだ文物と近代技術・経済制度を親しく見学した。この見学は、その後の栄一の開明的な考え方を形成する上で、大きな意味を持つこととなった。

明治元年十一月、幕府倒壊のため帰国。一時静岡藩に仕えたが、同二年十一月明治政府に仕官し、民部省に入って租税正となり、租税事務の処理にあたった。翌三年民部・大蔵両省の分離に伴い大蔵省に属し、四年五月大蔵権大丞となり、新貨条例・造幣規則ならびに国立銀行条例の起草立案にあたった。また地租改正事務局の設置や第一国立銀行および抄紙会社の設立などにも尽力したが、六年五月、大蔵大輔井上馨とともに健全財政を主張して容れられず、大蔵省を辞任した。
時に三十四歳であった。

(二)  実業界指導時代 大蔵省を退官後、栄一は民間にあって多くの近代的企業の設立と発達に尽力し、この方面で指導的役割を果たした。彼はまず第一国立銀行の監査役、つづいて頭取として同行の発達につとめた。これが彼の本義であった。
その他第十六・第二十・第七十七銀行など、いくつかの国立銀行の設立を指導し、特殊銀行・普通銀行の創立にも力を貸すこと少なくなかった。さらに率先して擇善会とその後身である銀行集会所および手形交換所の設立にあたり、それらの活動にも力を尽くした。銀行以外では、明治六年に我が国最初の洋紙製造会社である抄紙会社(王子製糸会社)の創立を指導し、野に下ってからは事実上の社長として同社の発達に尽力した。十二年には、我が国最初の本格的紡績会社である大阪紡績会社の設立を指導し、十九年からは三重紡績会社の設立にも尽力した。その他家鐘淵紡績会社・大日本紡績連合会の運営に力を与えた。また十二年には、我が国最初の海上保険会社である東京海上保険会社が設立されたが、その創立も栄一の力によるところが大きかった。

海運においては、十五年に増田孝らとともに郵便汽船三菱会社に対抗して共同運輸会社の設立を助け、十八年両社が合併して日本郵船会社が設立されるとその取締役として同社の発展を援助した。また二十九年には浅野総一郎の東洋汽船会社の創立を助け、四十年には日清汽船会社の創立委員長を務めている。
鉄道では、我が国最初の民営鉄道会社で、東北線を開いた日本鉄道会社の創立・発展に多くの貢献をしたほか、両毛鉄道会社・北海道炭礦鉄道会社などの設立にも尽力した。

以上の他、京都織物会社・北海道製麻会社・東京帽子会社・日本精糖会社・明治製糖会社・札幌麦酒会社・東洋硝子会社・浅野セメント会社・石川島造船所・東京人造肥料会社・東京瓦斯会社・東京電灯会社・東京株式取引所・帝国ホテルなど、栄一が創立したり経営を援助したりした会社は非常に多かった。そして彼は、これらの企業の創立にあたって、多くの人々から資本を調達できる合本組織、すなわち会社組織のよるべきであることを強く主張し、その実現に努力した。

ところで、栄一がこのように多くの企業創立・経営に関与したのは必ずしも財を築くためではなかった。それは、彼が三井・三菱・住友・安田のような大財閥にならなかったことからも知られる。また、企業を起こすこと自体に強い関心を持っていたためでもなかった。それよりも彼は、先進諸外国の圧迫のもとにあった後進国日本にとって、自国の近代産業を育て発達させることこそが最大の急務と考え、その実現に全力を傾けたのである。

彼はまた、商工業の発達には、官尊民卑の風を打破し自主独立の発展をはかることと、実業教育をひろめ実業道徳を向上させることとの二つが必要であると考え、その実現に努力をした。すなわち彼は、明治十一年から同三十八年まで当時の重要経済団体である東京商法会議所・東京商工会・東京商業会議所の会頭として、また時には商業会議所連合会の代表者として、政府にしばしば実業家の主張を建議応答してその実現に努めたほか、東京高等商業学校・高千穂学校・東京高等蚕糸学校・岩倉鉄道学校などの実業学校の創設・発展に尽くした。さらに「論語」を徳育の規範として「論語算盤説」または「道徳経済一致説」を唱え、それを実践することによって実業界の道徳水準を高め、その社会的地位を向上させることに努めた。

(三) 社会公共事業尽力時代 栄一は七十歳になったのを機に、明治四十二年六月金融関係以外の事業会社の役職を退任した。その会社数は六十に及んだ。さらに大正五年(一九一六)十月には金融界からも引退し、もっぱら社会公共事業に尽力することとなった。彼は前時代からひきつづいて東京市養育院の院長として活動したのを始め、多くの社会公共事業に関与し、それを育成発達させることに努力したが、この期において特に力を尽くしたのは国際親善についてであった。

彼はすでに明治三十五年にアメリカおよびヨーロッパ諸国を訪問し、これら諸外国との親善をはかっているが、四十二年八月には東京・大阪・京都・横浜・神戸の五商業会議所の代表によって結成された渡米実業団の団長として渡米し、主要都市を歴訪して彼地の実業家との交流を深めた。さらに大正四年十月にもパナマ太平洋万国博覧会の開催を機に渡米し、十年十月ワシントン軍縮会議開催の際にも渡米して側面から平和外交を展開した。また、大正三年五月には中日実業株式会社の設立を機に中国に出かけ、同国実業家との親善をはかっている。

彼はまた各国国際親善事業に進んで協力するとともに、来日した各国の賓客を歓迎接待して国民外交を展開した。王子飛鳥山の栄一の邸宅を訪れた外国人の数は、記録に残っているだけで千名を下らなかったという。こうして近代日本の発達に大きな役割を演じた栄一も、昭和六年十一月十一日死去した。享年九十二。
墓は東京都台東区の谷中墓地にある。法名、泰徳院殿仁 智義譲青淵大居士。
なお明治三十三年に男爵、大正九年に子爵を授けられている。穂積陳重・阪谷芳郎・明石照男はその女婿。

【参考文献】:竜門社編『渋沢栄一伝記資料』、渋沢秀雄『父渋沢栄一』、
白石喜太郞『渋沢栄一翁』、幸田露伴『渋沢栄一伝』、
渋沢雅英『太平洋にかける橋』。山口和雄著、国史大辞典より転載
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