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『吉田松陰と水戸学』
【2019/05/31 15:25】 エッセイ
後期水戸学(天保学)

水戸学は一般には前期水戸学、後期水戸学に分けられる。もともとは二代藩主の光圀の編纂事業である『大日本史』から始まったが、幕末史に影響を及ぼしたのは後期水戸学または天保学といわれるものをさす。
吉田松陰は、嘉永3年、鎮西遊学で新論に接した。ただし、この時は目次の書写程度であった。嘉永四年末から五年正月にかけて、水戸に滞在して新論の著者『会沢正志斎』から親しく講義を受けて、水戸学及び日本の国体の由来を知る。松陰の思想形成に大きな影響を及ぼした。

以下、Wikipediaの説明を転記してみる。
後期水戸学は、第6代藩主徳川治保(はるもり)の治世(1766-1805)、彰考館総裁立原翠軒・たちはらすいけん(1744-1823)を中心とした修史事業の復興を起点とする。この頃、水戸藩が深刻な財政難に陥っていたことや、蝦夷地にロシア船が出没したことなどがあって、修史事業に携わるばかりでなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題に意見を出すようになった。翠軒の弟子には小宮山楓軒(1761-1840)、青山延于・あおやまのぶゆき(1776-1843)らがいる。翠軒の弟子の藤田幽谷・ふじたゆうこく(1774-1826)は、寛政3年(1791年)に後期水戸学の草分けとされる「正名論」(せいめいろん)を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷と対立を深める。翠軒は幽谷を破門にするが、享和3年(1803年)、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、文化4年(1807年)総裁に就任した。(「史館動揺」)。幽谷の門下、会沢正志斎・あいざわせいしさい(1782-1863)、藤田東湖・ふじたとうこ(1806-1855)、豊田天功・とよだてんこう(1805-1864)らが、その後の水戸学派の中心となる。

190810水戸弘道館


文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著する。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。

天保8年(1837年)、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。また、藤田東湖も、古事記・日本書紀などの建国神話を基に『道徳』を説き、そこから日本固有の秩序を明らかにしようとした。中でも、この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は藤田東湖であり、彼は「弘道館記述義」において、解説の形で尊皇思想を位置づけた。これらは水戸学の思想を簡潔に表現した文章として著名で、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた

徳川斉昭の改革は、弘化元年(1844年)、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。改革派の家臣たちも同様に謹慎の罪を言い渡された。この謹慎の間に藤田東湖により「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」が著される。「回天詩史」は東湖の自叙伝的詩文であり、「正気歌」は文天祥の正気歌に寄せた詩文で、いずれも佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。嘉永2年(1849年)、斉昭の藩政関与が許可される。

水戸藩はその後、安政5年(1858年)の戊午の密勅返納問題、安政6年(1859年)の斉昭永蟄居を含む安政の大獄、元治元年(1864年)の天狗党挙兵、これに対する諸生党の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。

このように、水戸学は主として幕末にあって藩主であった徳川斉昭の教育担当として会沢正志斎が担当したことから、斉昭の強い個性と相俟って多くの人々に知られるようになった側面もある。斉昭の襲封時、門閥派と改革派との確執がその後にも影響を与えたのであった。この門閥派との対立抗争は幕末の最終段階まで続き、水戸藩は多くの人材をこの内訌で失い、ついに明治新政府に要人を輩出できなかった。戊午の密勅の返納をめぐっても対立が続き、安政の大獄で幕府(大老・井伊直弼)から、厳しく処罰され、多くの犠牲者を出した。そのため、井伊大老の暗殺へと発展し、結果として幕府権力の衰退の要因となった。桜田門外の変は、徳川政権の最後の権力維持を目論んだが、かえって衰亡へのみちを開いた。
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