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『近代日本と独逸医学の導入』
【2019/07/01 21:32】 エッセイ
明治政府が独逸医学を導入した理由

佐賀藩士・相良知安は、藩主・鍋島閑叟の侍医であった。明治新政府は西洋医学の採用を決めたが、戊辰戦争におけるウィリスの活躍からイギリス医学の採用が当然視されていた。
医学政策の責任者でもあった山内容堂は、自らもウィリスの治療によって治癒したことから、イギリス医学およびウィリスへの個人的信頼もあってウィリスに一任してイギリス医学でよいと考えていた。
戊辰戦争におけるウィリスの献身的な治療とその実績は新政府内でも高く評価され、新政府内ではそれに異論を唱える者はいなかった。
したがって、明治二年に相良知安と岩佐純(越前藩士・春嶽の侍医)が医学行政官(医学校取調掛)に任命されるまでは、廟堂においてはイギリス医学の導入は決定したも同然であった。

190703相良知安2


相良は幕末期に佐賀藩において蘭学の習得をし、さらに佐倉にある佐藤尚中の順天堂に留学した。
二年後に長崎の精得館で蘭医のボードウィンについて学んだ。オランダ医学は、江戸期を通じて唯一の通商国であったことから日本で西洋医学の導入・貢献があったが、実はドイツ医学のオランダ語版がわが国に紹介されたのであった。
西欧社会の国勢は斜陽のオランダに変わって、新興のドイツが躍進していた。オランダは西欧社会において17世紀のような隆盛は既になく、イギリスやフランスに遅れをとり、ドイツにも抜かれていたのであった。
幕末期に東洋への進出が遅れたドイツは、日本でもそうしたオランダの凋落した実情を知悉している人物は稀であった。
相良は修業期間中に、ドイツ医学こそ世界に冠たるものであって、国家百年の計の観点からすればドイツ医学こそ採用すべきであるとの確信を抱くに至った。
更に、特別の利害が絡まぬフルベッキのドイツ醫學への高い評価を聴いて、いよいよ独逸医学への信頼を抱くに至る。
ここから、相良と岩佐の医学校取調掛の二人は精力的に独逸医学の採用に向けて精力的に動き出す。
相良の論は、あくまで独逸医学が世界水準での一頭地を抜く存在であることから、私情をを挟まぬ科学的根拠を基にしたものであって、山内容堂の政治的判断とはその論拠が違っていた。
当初は殆どイギリス医学採用方針が決まりかけていた新政府の要路者を説得し、ドイツ医学の水準の高さこそ評価すべきであるとする相良の考えは廟堂の方針を覆すのは困難とみられていた。
しかし、相良の性格もあって精力的な説得工作は、壁に阻まれつつも次第にドイツ医学の優秀性が受容れられる方向に向かった。
当然薩摩や土佐系の人達は相良説に反対で、後に相良は冤罪で入獄となるも明治五年竟にドイツ医学採用の決定を見、相良自身は第一学区医学校長と文部省初代医務局長を兼任する。
この功績から、現在の東京大学構内に昭和10年12月に相良の顕彰碑が建つ。
しかし、相良の妥協しない個性は政府内でも次第に支持者が減少し、間もなく官を辞した。
晩年は不遇の人生を送ることになり、明治39年窮乏のうちに死去する。
新政府での活躍期間は短かったものの、医学行政に大きく貢献した。
現在では、相良の功績や人となりを知る人は、医学関係に携わる人々を除けばごく少数の人といえるだろう。
今日の東京大学の医学部の圧倒的な権威と存在感を考えるとき、短期間ながらの活動でドイツ医学を導入した功績に思いを馳せたいと思うのである。
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