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『J 万次郎の軌跡』
【2019/07/31 21:34】 エッセイ
『漂巽紀略』ージョン万次郎漂流生活記(河田小龍記)ー
昨年末に講談社学術文庫から『漂巽紀略』の現代語訳が刊行された。半年間で大変な売れ行きで増刷となっている。
西欧では第一次産業革命の進展の成果が市民生活に変革を及ぼしていた。天保八年、土佐の漁師五人とともに漂流し、運良く米国捕鯨船に救助されて米国での生活は十年の長きにわたった。
万次郎さんはホイットフィールド船長にその才覚を見出された(養子となる)ようです。
漂流した五名のうち万次郎だけが捕鯨の仕事で世界を航海して様々な見聞を広めた。
このことが海外渡航禁止の徳川政権下にあって、生き延びることはもちろん、世界の大勢や米国の政治システムを体験的に識ることになる。
それは鎖国日本にとって、得がたい世界情報となって罪人どころか、れっきとした「土佐藩士」となり、さらに「幕臣」となる。
さらに、万延元年の咸臨丸での太平洋横断の一行に加わり、堪能な英語力を駆使して漁民から三段階特進となって日本に為に尽くすことになる。そうして米国生活体験が、当時の日本人達にとって貴重な財産となるのである。
その体験を河田小龍が取調に立ち会って聞取り、纏めたものが『漂巽紀略』である。
これは、後に日本が世界史の舞台に引き出されて『世界に伍して』いく針路ともなった。
幕府の老中をはじめ、鎖国体制下の情報不足を思い知らされることになるが、長崎では幾つかの事件を経験している。
それが有名な「フェートン号事件」である。時の長崎奉行が責任をとって自決したのは情報不足の悲劇としかいいようがない。
結果としてペリー来航後に万次郎の知識が国家的に必要となるばかりでなく、世界認識に思いを致した坂本龍馬の世界観に影響を与えたと云われる。
いま、土佐清水市に【ジョン万次郎資料館】が建つ。幕末期に彼の体験とそれの基づく知識は、国家的見地からも大いに嘱望されたが、不幸にして明治四年に脳溢血を患い、幸いにして一命はとりとめたものの再度の脳溢血で死去した。
明治維新後の万次郎の消息がプッツリと途絶えたのは、かれの健康上の理由があったのである。
幸い、長男の東一郎さんが明治期に医学者として活躍し、その子息も活躍し世に裨益してくれたことを我々は感謝しなければならないと思うのである。

190802ジョン万次郎190730川田小龍190730漂巽紀略




望郷の念止みがたく帰国した直後にペリーの来航となり、密出国転じて世界を見聞した情報が幕府要路や開明的な諸侯から罪人どころか藩士・幕臣へと待遇が三段跳びの栄達となる。
特異な運命は幕末期に重要人物になった。有名な咸臨丸の太平洋横断の航海に、万次郎は通訳・技術指導員として随行する。
明治二年には新政府より、『開成学校』(現東京大学)の教授に任命され、翌年にはヨーロッパで起った「普仏戦争」の視察団として派遣される。この帰路に、恩人であったホイットフィールド(フェアヘーブン在住)を訪問し、再開を果たす。
まさに劇的な生涯を送った一である。明治四年の脳溢血を経験して、以後静かな余生を送ったとされ、明治三十一年に、再度の脳溢血を発症して七十一年の生涯を閉じた。子息は明治医学界でも活躍(東大医学部卒・中浜東一郎)する。
北里柴三郎の伝記を読むと、東一郎さんが登場する。
その東一郎さんの子息が『中浜万次郎の生涯』という本を書いている。
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