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吉田松陰の対外政策 ①
【2019/08/29 10:02】 エッセイ
「栗原良三に復する書」(嘉永五年六、七月頃)

吉田松陰は前年の江戸遊学で、ロシアが我が国の東北の海防の無備をついて津軽海峡を我が物顔に航行しているとの情報を得た。さらに津軽半島に上陸し狼藉を働いているという情報は、検証の必要があると即座に思い立った。
そこで、鎮西遊学以来の友人で、同じ「山鹿流兵学」の先輩でもある宮部鼎蔵とともに北辺の海防視察を敢行することとなった。
ただし、この行動を是としない藩の上層(具体的には、江戸藩邸の佐世主殿は、松陰からの〔願い書〕提出の時点(嘉永五年七月二十三日)では許可したものの、直前になって許可しないとのことになった。
これには、藩主の毛利敬親が急遽、九月に国元に帰国して不在という事情があり、藩主の印形のない箇所手形は無断で発行出来ぬ故に、出発延期を指示してきた。その時、松陰は宮部鼎蔵と江幡五郎とで出発の日を約束していたことから、松陰は板挟み状態となった。そこで、藩主の許可(箇所手形発行)なきままに、かれら二人との約束を強行したのであった。
半年後、東北の海防視察を終えて江戸に戻った松陰を待っていたのは「国元で屏居待罪」で、処罰が下るまで国元蟄居の命令であった。この東北旅行途次、水戸に一ヶ月滞在して会澤正志斎から親しく水戸学を学んでいる。松陰の思想形成にとって大きな転換点であった。水戸学(後期)は「尊王攘夷」を掲げる幕末の指導的イデオロギーとなった藩であった。とりわけ、会澤正志斎は前藩主の徳川斉昭の教育掛を担当した、水戸学の大家の一人で、文政年間に起きた北茨城での「英国人の無断上陸」の取調べを行った経験に基づいて『新論』を著述していた。尊王攘夷はいわば水戸藩の藩是ともいうべき対外観を有していた。松陰の攘夷思想の原典はこの水戸学にあったこと、先年の鎮西旅行で学んだアヘン戦争における英国の清国侵略の実体とともに「攘夷思想」を形成したのであった。松陰の攘夷思想は「洋夷」排斥の思想に特徴がある。この先進列強国からの脅威を如何にして皇国の防備に転用して「国防」を達成するかが、彼の思想と行動の中で大きな比重を占めたのは、山鹿流軍学師範という家職と無縁ではなかった。そこから、列強国への対応策が巡らされることになる。

この來原良蔵に対して書かれた内容は、こうした背景の下に考察されるべきであろう。時期的にもペリーの来航の一年前になり、脱藩の処罰確定前の萩で屏居待罪中であったことと合わせて見るべきである。この屏居待罪中における読書の内容は『睡餘事録』と『來原良蔵に復する書』に詳しい。「身皇国に生まれて皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」、故に
先づ「日本書紀」三十巻を読み、之れに継ぐに「続日本紀」四十巻を以てす。其のあいだ、古昔四夷を懾服せし術にして構成に法とすべきものあれば、必ず抄出してこれを録し、名づけて皇国雄略と為せり。(9-283・睡餘事録)
ここに松陰の「皇国雄略」たる対外政策がある。東アジアにおける祖国の独立貫徹には、朝鮮や満州の懾服が必要であるとする。

これを前提に、
「皇朝、武を以て國を立つ、その盛時は高麗・新羅を懾服して使者を百済・任那に駆りしこと難からざりしなり。寛平に至りて、新羅来寇す、則ち撃つちて之れを却けたるも、是の時は古の雄略復た見るべきなし而れども防守は尚ほ人ありき。其の他は則ち言ふべきものなし。豈に時不可なるか。夫れ盛衰は何の時か之れあらん。豊関白起こるや、三韓を鏖にし、有明を壓し、勢い将に古の略に復せんとす。不幸にして豊公早く薨じ、大業継がざりしは惜しむべきかな。然れども余威猶ほ百蛮に震ひて數世に延ぶ、盛なりと謂ふべし。降りて近時に及んでは、事言ふに忍びず。羅刹、蝦夷を擾すも、大恥未だ雪がず、英・拂、琉虯に逼るも、深い患未だ除かず。浦賀に闖入すれば則ち慰して之れを遣り、下田を劫掠すれば則ち免して之れを脱す。国威の衰頽、最も未だ嘗て有らざる所なり」。(6-316)を読まなくてはならない。

190927人は何故勉強するのか

松陰が、『武を以て國を立つ』とした古代の日本が朝鮮半島に進出し、それらを『属国』として扱ったという日本書紀の『歴史的神話』に、『皇國』が他の国との相違を示すところであり、豊臣秀吉の『朝鮮出兵』は『古の路』を復活させたものである。しかし、それが終わってからというもの『国威の衰頽』は甚だしいものであると認識される。
松陰の『國體』の発見、すなわち『尊王』と天皇の下に周辺諸国を武力によって『懾伏』させることがリンクしており、両者は不可分な存在なのである。
このように『武』の國であったはずの日本が、米国艦隊の『武』に威圧されて条約を締結してしまった。再度の来航時にこそ日本の『武』を輝かせて往時の栄光をとり戻すべしと開戦に期待した松陰は肩透かしを食らったかたちになってしまうのである。

吉田松陰初期の世界戦略である、これが書かれたのが嘉永五年七月。このとき松陰は箇所手形なしで東北遊学に出奔したため、帰朝してから藩の処分が下るのを謹慎して待っていた時なのである。
松陰の「東北游日記」の末に「睡餘事録」と題した小論がある。其れによると、一ヶ月足らずの内に『日本書紀』『続日本紀』を立て続けに読了している。すさまじいまでの読書ぶりであるが、これには伏線があって、江戸での仲間から、長州人は日本の古代史に暗いと指摘され、冷や汗をかいたことがあったが、多忙に追われ日本の成り立ちを勉強する余裕がなかった。
そこに、東北遊学の機会が訪れ、水戸で会澤正志斎(後期水戸学の大家)から親しく講義を受け、念願が叶ったのである。
その感激が覚めやらぬ内に、上記の異常とも言える読書になった。
そしてして日本書紀の記述に基づく、神功皇后の三韓征伐や雄略天皇の朝鮮侵攻に感激し、隣国の懾服論が形成されたのであった。この記事は、『万年書生気分』の名前で書かれている方の、吉田松陰の朝鮮論の述作からの引用です。
松陰の対外政策勉強で非常に勉強になりましたので、原文はそのままにして記述し、戦前の日本陸軍が大東亜戦争に利用したとされる検証の一環として書いている。これを読むと、松陰が尊王攘夷の権化のように理解されているのを見直す機会になると思える。
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