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【高杉晋作から周布政之輔】宛ての書翰
【2020/02/19 18:23】 エッセイ
『高杉晋作』から『周布政之輔』への書簡

安政六年十月十二日、江戸にいた高杉晋作に帰国命令が出た。五日後の十七日江戸を発ち、京阪地方を見物して、翌月十六日萩城下に到着した。高杉を待っていたのは江戸から萩までの帰国途次の間に執行された師・松陰の「刑死情報」であった。
安政五年七月二十日、高杉は「江戸遊学」を目指して萩を出発した。
八月十六日に江戸到着以来、一年二か月の江戸滞在であったが、この間に「師・吉田松陰」が安政の大獄に巻き込まれ、江戸召喚命令が下り六月二十五日に江戸藩邸に到着。
そして、七月九日第一回の取り調べを受け、即日揚り屋入りとなって伝馬町の獄に収監された。

高杉は、獄にいる松陰の世話をしつつ多くの接触機会や、書簡を受け取っている。
萩の松下村塾で学んでいた頃より、師との語り合いや接触機会が格段と多くなったであろう。
重要な書簡も交わされて、「丈夫(武士)死すべき処如何」と問うた事に対する松陰からの返信は、晋作に大きな影響を与えたとされる。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」(安政六年七月中旬・書簡)の有名な言葉はかくして生まれた。



前年七月江戸へ発つ高杉に松陰は、有名な『高杉暢夫を送る叙』(安政五年七月十九日・戊午幽室文稿)を書き与え、大いに激励をした松陰であったが、今度は恩師が獄に収監されて、恩返しともいえる身辺の世話をしているのである。
松陰は幕府の取り調べの様子を詳しく高杉に手紙で知らせている。(安政六年七月九日頃・書簡)
これが残っているために取り調べの内容が今日にあっても我々は詳しく知ることが出来る。
高杉は毛利藩に在って「大組」という中核をなす階級に属し、また毛利譜代の名門家臣として普通の状態であれば藩主の側近にまで取り立てられる家格の出身である。従って晋作の父小忠太は、常に「大それたことをしてくれるな」と云っていた。
高杉家の御曹司の一人っ子として生誕しているから、親として子の安泰を願う思いはひとしお強かったのであった。

150101高杉晋作150420正装の吉田松陰200219周布正之輔


武士階級のみが学べる藩校「明倫館」で、当時の通常の学問である「四書五経」を始めとする儒学を学べば、大過なく送れる人生を約束されていた晋作であった。
しかし明倫館の学問にあきたらず、松下村塾の門を叩いたのが彼の人生を大きく変えたのであった。
だが親はそれを快く思わず、晋作は夜になってそっと家を抜け出して松下村塾に通った。
元来が素質豊かな青年であったこと、久坂玄瑞という優秀な人物が先に入門していた事もあって奮起し、努力の甲斐あって成長著しい成果となるのである。
それは師の松陰をして喜ばせるに充分であり、『高杉暢夫を送る叙』にそれが赤裸々に綴られている。
こうして期待を担って江戸遊学を果したのだが、晋作の安泰を願う父親は尊王攘夷活動の危険を回避させようとする。
だからこうした態度を忌み嫌う親を評して『僕、一つの愚父を持ち居り候故、日夜僕を呼びつけ俗論を申し聞かせ候』(高杉晋作全集・上、九四頁。安政三年三月二十五日・久坂宛て書簡)となるのである。
そのように悩みを抱えながらも、時勢を知る晋作にとっては親との葛藤状態は続くのであったが、江戸に在った晋作にとって思わぬ機会が巡ってくる。
それは獄中にある松陰との濃密な接触機会であった。そうして、またもや松陰との接触を嫌う親の願いで帰国命令となる。

江戸遊学も松下村塾で、吉田松陰との接触を避けるべく父親の潘府への申し入れで実現した経緯がある。
そしてまた江戸からの帰国を画策されたのも、松陰との間を引き裂こうとする父親の願いであった。
そして冒頭に書いた如くに帰国命令を受け萩に戻されるのであった。しかし、今度は事情が異なる。晋作が帰国途上の間に師の松陰が幕吏の手によって処刑されたのである。


晋作の無念さは余りあり、当時の藩府の重職に在った周布政之輔に対し次のような激しい文意の手紙を書かずにはいられなかった。
即ち『我が師松陰の首、遂に幕吏の手にかけ候の由、防長の恥辱口外仕り候も汗顏の至りに御座候。実に私共も子弟の交わりを結び候程の事故、仇を報い候わで安心仕らず候』と。
確かに当時の状況からすれば尊王攘夷の活動には危険が伴うが、松陰の時勢観と「死の教育」を見せられては黙視するわけにはいかなかったことであろう。
高杉の言う「愚父」の願う俗論では神国日本の存在そのものが危うい状況に在る。
師松陰からの死生観を聞かされた晋作は、松陰の死後それを実行する。
「生きて大業の見込み」があれば、一時の逃避も辞さない。
本藩の下関の直轄を嫌う支藩や当時の潘庁を動かしていた反対派(俗論派)から命を付け狙われていると知ると、筑前に逃亡して潜伏する。
そして割拠論の実現のために舞い戻り功山寺の挙兵となり、元治の内戦に勝利する。
これが第二次長州征伐での勝利に繋がり、松陰の説く「大業」のために命がけの行動となった。
半面から言えば「死してはならない」という師の教えでもあった。
また松陰の晩年に行きついた草莽崛起の考えも継承発展させて「奇兵隊」の創設という、封建制度下の厳しい身分制度を打破して近代軍隊の基を実践して見せたのであった。
このように松陰の教えを継承した高杉は、久坂玄瑞と共に「松門の双璧」と称えられるのであった。
そうして、幕府との戦い(四境戦争)に勝利し、「不朽の大事業」を果してその生命の完全燃焼という生涯を送ったのである。
大政奉還の半年前、慶應三年四月のことであった。
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