長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

薩長史観(維新史観)について
【2010/08/29 07:31】 エッセイ
息抜きをしながら読める「明治維新」にまつわる秘話や裏側を書いてみました。

「勝てば官軍」ということばがある。幕末維新時の「戊辰戦争」に勝利した反徳川幕府側、つまり討幕側(主として薩長軍)が幕府軍に勝利したことからいわれることばである。
薩長


結果としての勝利者側に立ったのであって、そこには「善悪の判断を超越」したものがある。我々の、少なくとも明治中期以降に誕生した人達は、こうした「維新史観」を当たり前に受け入れ、そこに多くの疑問を投げかけないようである。そして、それが歴史であると思い込んでいる。だが、果たしてそうだろうか?



「大久保一翁」・「岩瀬忠震」・「川路聖謨」・「小栗忠順」は幕府側にあって、大変有能な人物であったと云われている。
小栗上野介24.8.18


敗者の立場がこの歴史上の人物を抹殺してしまうのである。「勝海舟」や「榎本武揚」のように明治以降顕官に就いた人物は別とすると、上記の人々は脚光を浴びない。歴史の冷たさとでも云おうか。教育の怖さでもある。因みに「日本史の教科書」には名前すら出てこない。これらは「明治維新礼讃型」の「史観」に基づくものであって、幕府側にあって懸命に生きた姿は歴史の彼方に消え去られてしまっている。歴史の勉強の難しさである。「歴史を観る目線」とでも言っておこう。
東郷元帥24.8.18


一つの「秘話」を紹介します。日露戦争の英雄である「東郷平八郎」が、ある時「小栗忠順」の子孫を招いた時のこと。招待された「小栗家の子孫」が東郷家の床の間側(上座)に着座を勧められた。不審に思っていると、東郷は「小栗の功績」のお陰でロシア艦隊に勝利できたという。小栗は「横須賀造船所」を作った人物であるが、不運にも賊軍の立場になってしまった。「罪なくして斬られた」人物としてその悲劇性が語り伝えられている。
吉田松陰の先駆をなした人物は、幕府の「ご威光」が盛んな時代であった。「宝暦・明和事件はそんな時代に起きた」のであった。尊皇や朝廷側からする覇道批判は許されなかった時代があったのも事実である。「権力は魔物」といわれるゆえんである。


関連記事
スポンサーサイト
この記事に対するコメント
O.K様
早速の「語源」指導ありがとうございます。幕府軍が、討幕軍(この時点では政府軍)の数倍の兵力を保持しながら敗者となったのは、天皇の軍隊たる「錦の御旗」を討幕側が握っていて、これが「志気高揚」に著しくマイナス作用したことや、「軍としての統制・管理」の指揮命令系統・戦いの目的等が不明確だったようです。やはり、天皇に弓を引くことの「うしろめたさ」など「日本人」の固有な考え方などが根底にあったのでしょうか。今後とも、ご指導のコメントをよろしく御願い致します。
【2010/08/29 16:31】 URL | 長谷川勤 #- [編集]
 
「勝てば官軍負ければ賊軍」の言葉の語源。
官軍は、天皇に従属する軍のことで、明治維新以後は政府軍の事を指します。「天皇の軍隊である」という意識は軍全体の士気にも大きく影響したようです。
対するのが「賊軍」で、当時は官軍・賊軍の立場はその状況次第で著しく変動したようです。それで庶民がこれを揶揄した「勝てば官軍負ければ賊軍」の諺が生まれたのです。参考まて゛。
【2010/08/29 10:15】 URL | O.K #- [編集]

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://kinnhase.blog119.fc2.com/tb.php/42-370d6724
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR