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吉田松陰と新島襄
【2010/09/16 13:02】 エッセイ
北海道旅行から発展して、日本三大私学まで話が広がってしまいました。歴史の不思議は、徳富蘇峰が同志社出身で、「吉田松陰」が彼の代表作となったことです。
9月12日から三日間、北海道旅行をして来ました。函館、小樽、登別温泉、洞爺湖、大沼国定公園、函館を散策して青函トンネルを通って八戸から新幹線乗車。札幌の「時計台」はイメージと違い「こじんまり」でした。北海道庁舎は明治の開拓精神が息づいているようでした。小樽は曾ての漁港から観光都市化していて、市街は観光客の往来で賑わっていた。曾て「鰊漁」で巨万の富を築いた立志伝の人物の話が、思い出話と自慢話に聞こえる説明係の言い方に思えて残念。洞爺湖の美しさと「サミット」を偲ばせる山頂の豪華ホテルもミスマッチのイメージ。
函館 函館3 函館4 札幌1 札幌2



さて、掲題の鎖国体制下の「海外密航」の成功者と失敗者である。吉田松陰の下田での事件は、余りにも人口に膾炙し過ぎているが、失敗者ゆえのことか? 成功者の新島襄の密航は歴史の脚光を浴びているイメージが少ない。新撰組の「池田屋襲撃事件」と同じ元治元年6月に函館から密航に成功した新島襄は、「幕末の政争・尊皇攘夷運動」の陰に隠れて語られる事は少ないようである。アメリカ船ベルリン号で脱出(ロシア人、ニコライの助力もあった)。上海経由で米国行きを果たした新島襄は、マサチューセッツ州の「アマースト大学」を1870年(明治3)に卒業、時に27歳。日本で当時としては数少ない「学士」の称号を持つことになった。時代は変り、ワシントンでの森有礼との出会いが、後の「同志社大学」へと連なる。「明治新政府の岩倉遣欧使節団」とも米国で会う。教育に関心の強かった木戸孝允と親近の話会いも持つ。そして1874年に「アンドーヴァー神学校卒業」を果たして同年帰国。当然にキリスト教徒として。
後に早稲田を創立した大隈重信とも交遊、福澤諭吉の慶応義塾と共に「日本三大私学」創設へと日本の近代教育史を飾ることになり、今では早稲田と同志社は「単位互換」取得で卒業要件にて協力しあう間柄となる。

歴史にイフはないが、吉田松陰が明治まで生きながらえたら「文部大臣」にはなっただろうとの歴史家の対談を読んだ記憶があるが、その可能性は「なるほど」と思わせるものがある。ただし、曾ての門下生が総理大臣で先生だった松陰が文部大臣を引受けるかどうかは誰もわからない。敢えて仮説を建てれば桂小五郎の息のかかった人物に懇願されてのことだろう。

新島襄は現在の群馬県の安中市(藩)の人である。このご縁から、新島学園が群馬県安中市に今も存在し、また群馬県出身者で同志社大学へ進学する学生も多いといわれる。
同志社といえば「徳富蘇峰」が著名。彼の代表作「吉田松陰」と繋がる不思議なご縁である。こうした事実を辿る中に歴史の面白さを感じるのは一人私だけではないだろう。
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この記事に対するコメント
私の住む町内会で活動はいつも同じ人がやっていて、変えたくても何も変わりません。市議会も国会も同じです。いつも同じ人ばかり。その上、当選を重ねるために選挙のためだけの活動しかやっていないように思えるのです。これは住民が無関心なのか、制度に問題があるとしか思えません。今般、名古屋の河村市長は『地域のことは地域で決める』と、代表者が選挙で選ばれる「地域委員会」を新たな住民自治の仕組みとして導入しました。しかし、これも議会の修正があり、このままでは継続して実施することが出来ないようです。リコールの署名活動にボランティアとして参加している人の多くは、地域委員会の取り組みを続けた方がいいと考えているからでしょうね。
【2010/09/21 16:37】 URL | 名古屋の志士 #- [編集]

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