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過書及び手形下附願(控)
【2010/09/22 09:49】 エッセイ
嘉永三年八月二十三日

掲題の「史料」です。このために、松陰は人生の大きな変更を余儀なくされました。藩主「毛利敬親」は「国の宝を失った!」と嘆息したのでした。江戸時代は、隣の藩も外国でありました。



過書及び手形下附願(控)(嘉永三年八月二十三日)

申上げ候事

私儀軍学稽古の為め自力を以て肥前平戸松浦壹岐守様家来葉山佐内方へ罷り越し修行仕り度く、當秋冬の間出足月より往来彼の地滞留とも十ヶ月の御暇差免され下され候様最前御願ひ申出で、御許容を遂げられ難有き仕合せに存じ奉り候。之れに依り来る二十四日上下貮人御當地出足仕り度く存じ奉り候間、出津併びに過書、赤間関渡海の御手形差出され下され候様願ひ奉り候。此の段宜き様御沙汰成され下さるべく候。頼み奉り候。以上。
八月二十三日                        吉田大次郎(花押)
内藤與三右衛門殿

御手前事肥前平戸罷り越し度く當秋出足當日より往来十ヶ月の御暇願ひの如く差免され候に付き、御暇中、御城御番差除かれ候條、貴意を得らるべく候。己上。
八月二十四日
内藤與三右衛門
(外封)吉田大次郎殿

これは吉田松陰が長崎の平戸に遊学(修行)したいという、願いと共に『個所』手形の許可証発行を「藩政府」に御願いを出した文書である。(吉田松陰全集第十巻)
江戸時代は藩=国(国内の)統治システムであった。だから、隣国を通過する為には、このような許可証の交付願いを出して証明書が必要であった。
過所手形(過書手形)とも書く


この文書は、今日的には、松陰の長崎留学願書と併せ持つ「パスポート」に該当するものである。実は、この翌年に東北旅行を願い出た時に、許可証が発行されなかった。(出発の日に許可が下りなかった)、この許可証の発行無しに出発したため、松陰は『脱藩』として扱われ、「山鹿流兵学師範」の返上と「吉田家取り潰し」となり、一介の浪人となる運命となったのである。現在は都道府県の何処に行こうとしても、許可証は要らないが、江戸時代はこれがないと「藩士」の身分消失となったのである。今日から考えると、何とも不便な時代である。つまり、国際便の乗車手続きに相当するわけです。「官尊民卑」を福澤諭吉が、怒りを込めて生涯を貫き通した意味がここにあります。地元の藩の「首相」か、江戸藩邸の「首相」(家老職相当)の許可証がなければ、関所が通過できない。この「身分証明書」の最たるものは、「入り鉄砲に出女」と言われる「人物鑑定」の必要性なのであった。松陰は、これを承知で「官もし許さざれば、出奔あるのみ」として、敢然たる旅行を敢行し、人生を大きくターンさせたのであった。理由は次回に記したい。それ程に『過所手形』は国内統治の秩序維持に重要なのであった。「萩藩の軍学師範が一介の浪人へ」と大きく旋回した出来事で、松陰の生涯を語るときには、欠かせない重要なことなのであった。
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