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入江杉蔵の母
【2010/10/21 09:37】 エッセイ
今日は、久しぶりに記事を書きました。四天王の一人として松陰が信頼を寄せた入江杉蔵の母の話です。
この人にしてこの母ありでしょうか。
入江九一
(萩市土原町)


入江杉蔵の母
松下村塾の四天王の一人と称され、以前にも「杉蔵往け!」の送叙名文を紹介した入江杉蔵、今日はこの母について書いてみたい。
杉蔵は5歳下の弟「野村和作」ともども松陰主宰の松下村塾での晩期に入塾した。彼らの母の名前は「満智」と言う。文化元年生れであるから、松陰の母より3歳年上になる。松下村塾や吉田松陰の「尊皇攘夷」は必ずしも当時の地元では歓迎者ばかりではなかった。それが証拠に松陰の肖像画の「跋文」に「人狂頑と謗り、郷党衆(おお)く容れず」と松陰自身が書いている。「松下村塾」を白眼視し、国事犯としての松陰を「危険思想家」との世評もあったというわけである。それゆえに、高杉晋作のように親から反対され、夜になってそっと通った塾生も現れることになる。

しかし、満智は子供の大成を願って松陰のもとに通わせた。兄弟は松陰に心服し、また松陰も彼らを信頼した。安政6年の書簡で杉蔵に大事を託す内容や、松陰の思いが率直に語られている。杉蔵が四天王と呼称される所以である。
ところが、入塾して間もなく松陰は「野山獄」に再度投獄されてしまう。この投獄は「寅次郎の学術純ならず」という解り難い理由のため、藩の重鎮宅に説明を求めて夜分に押しかけたことで、足軽達が入れられる「岩倉獄」に投獄されてしまう。師弟が道路を隔てて共に獄中の身となるが、松陰は門弟の品川彌二郎に満智を見舞わせた。これに対して「二人の子供を大病で亡くすことを思えば、何でもありません」と満智は答えたという。この報告を聞いた松陰は「賢なるか江母」と礼賛した。その松陰は刑死となり、兄弟は師の著書や書簡を一心に筆写して悲しみに耐えた。
免獄後の兄弟に、満智は「お前たちは良い学問をした。いつまでもこの苦難を忘れないように」と諭したという。

杉蔵は「禁門の変」で討ち死にするが、和作は明治になって顕官になり子爵となる。神奈川県令の時、松陰から託された「留魂録」を受け取ったのがこの人であった。
出会いの運命は人生につきものだが、この母がありてこそ、と思わずにはいられない。松陰の母「滝」も賢母で有名だが、信念を持った賢母の下で勉強の機会に恵まれた杉蔵兄弟もまた、松陰同様に母親思いであったと言われる。「師の心、母の心」知るべしとも言える美しい秘話である。

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