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加藤公に祷る (西遊日記附録)
【2010/11/09 14:06】 エッセイ
これは、吉田松陰が、長州藩山鹿流兵学の、独立師範となって、すぐに長、平戸に修行旅行をした時の、帰途に肥後を訪問した時のことである。
松陰の生涯で、唯一「神頼み」を加藤清正の廟所に詣でたときのことで、弟の敏三郎の聾唖回復を、神に祈る思いで、松陰が、願掛け、したときの模様をきしたものであります。

少し、大変だが、全集の記事を転記します。
読みにくいでしょうが、頑張って読んでみてください。
難解な文字が並びます。昔の人は漢学だったから、こうした難文字も乗り越えて、自分のものとしたのでしょう。では頑張ってよみましょう。
吉田松陰


伏して惟んみるに我が加藤公は英武虓闙にして、威は三國に奮ひ、名は千載に傅はる、其の神は永へに死せず、霊験今に新たかにして、能く躄者も善く履むことを得、眇者も善く視ることを得しめたまふと。神の斯の民に功徳ある、其れ誰か敢へて尊信せざらん。遠方の人、區々祷ることあり、神其れ降監したまへ。
吉田敏三郎

某に弟あり、敏と曰ふ、生れて五歳、四體缼くるものなく、九竅咸は具はり、笑貌動息、人に異なることなし。唯だ其の言語喃々として章なく、得て聴辨くべからず。父母の慈、是れ憐み是れ痛み、醫治百たび施して至らざる所なし。人事既に竭きたり、将た又如何せん。情の迫る所獨り神明に倚るのみ。大凡人は唯だ其の心のみ、而して心の動くや言に由って述ぶ。苟も言ふ能はずんば則ち猶ほ心なきがごとし。心なきがごとくならば則ち人か、禽か、獣か、将た木石か、未だ知るべからざるなり。夫れ四體缼くるなく九竅咸な具はり、笑貌動息、人に異なることなし、然り而して猶ほ斯くの如し。豈に深憐重痛すべからざらんや。區々祷る所、神其れ降監したまへ。抑々某聞く、朱明の王守仁は五歳にして未だ言はず、其の名を改むるに及んで即ち能く言ふ。既にして其の道徳言功は百代に朽ちずと。天の非常の人を生むは必ず非常の祥あるか。果して然らば則ち神尚くは之を啓へたまへ。神明を冒瀆すは恐懼已むなけれども、亦唯だ尊信の至り已むを得ざるなり。神尚くは之れを察したまへ。某拝祷す。




祷の事たるや、識者或はこれを譏る。而るに周公の金滕は尚書これを典謨誓誥に列し、庾黔婁の北辰を拝せしこと、朱子これを小学に載するは何ぞや。夫れ死生命あり、富貴は天に在り、身を修めて命を竢ち、己を竭して天に聴くは君子の道なり。故に孔子曰く、「丘の祷ること久し」と。(故に)此れを棄つれば、天下豈復た祷りを以て得べきものあらんや。識者の譏りも亦宜べならずや。余は謂へらく、聖賢の祷りは已むを得ざるの至情に出づるなりと。蓋し情の至れる所は理の存する所なり。今父母病ありて、将に(如何とも)為すべからざらんとす。奉養具に至り醫治百たび施すとも、人子たる者は尚ほ慊らざる所あり。甚だしく狂悖の人に非ざるよりは、死生命ありと日ひて安然として自ら居ること能はず。則ち人子の父母の為めに祷る、豈至情において已むを得んや。故に祷なるものは斯の至情を薀みて、以て之れを神明に輸すのみ。感應の事に至りては、幽妙隠微にして且つ彼れに在り、固より我れの必とする所に非ざるなり。此れをおしひろめては、晴を祷り雨を祷る等の事、皆然らざるはなし。余が弟の為めに祷るも亦唯だ是の意なり。因って平日持する所の論を以て併せ識すと云ふ。(吉田松陰全集第九巻102頁収載)

※吉田松陰の末弟(弘化二年生れ:14歳年下)に敏三郎がいたが、不幸にも聾唖であった。平戸の修行の後、熊本の加藤清正公の廟所に詣でて、回復を祈った。
加藤清正廟224.5.5

松陰の生涯で唯一の祈りである。家族思いの松陰の姿であるが、残念ながら回復せず、明治9年、32歳で死去している。写真が残っているが最も松陰の面影を残しているといわれている。なお、この時、生涯の友となる宮部鼎蔵(山鹿流兵学者)にも出会っている。平戸の葉山佐内の下で修行中、陽明学(伝習録)との出会いも、アヘン戦争の詳細を知ったのもこの鎮西遊学であった。『西遊日記』として松陰研究の重要文献である。長崎でオランダ船にも乗っており、砲六門を備えてあったと記している。後のペリー艦隊とは、規模が違うが軍艦の何たるかを実地検分出来た意義は大きいと考えられる

用 語
加藤公 = 加藤清正
虓闙(こうかん) = 虎が吠(ほ)えること。転じて将士の勇猛な態度のたとえ。
三國(さんごく) = 日本・朝鮮・明
躄者(へきしゃ) = あしなえ。いざり。
眇者(びょうしゃ) = すがめ。めっかち。眇目(びょうもく)の者。
遠方(えんぽう)の人 = 長州から来た松陰自身をさす。
區々(くく) = いろいろと心を砕(くだ)いて。
降監(こうかん) = 神仏などがあまくだってみること。
敏(びん) = 唖弟(あてい) 杉敏(すぎびん)三郎(ざぶろう)。
四體(したい) = 四体は頭・胴・手・足。九竅(きゅうきょう)は身体にある九つの穴。ここは身体全て正常の意。
喃々(なんなん) = べらべらしゃべるさま。ここでは、唖弟(あてい)が多言するが言葉にならないさまをいう。
朱明(しゅみん) = 明の王室は朱姓(しゅせい)であるから云う。ただ明というに同じ。
王守仁(おうしゅじん) = 王陽明。名は守仁、幼名を雲(うん)と云う。
非常の人 = 常人と異なった偉才(いさい)。
金滕 = 武王が病気になった時、周公の作った書。『尚書(しょうしょ)』すなわち『経書(けいしょ)』に載せて篇名となっている。周公が身をもって武王の死に代わろうとしたことが記してある。
典謨(てんぼ)誓誥(せいこう) = 典謨(てんぼ)誓誥(せいこう)のこと。古の帝王の定めた法則で『書経』の篇名。
堯典(ぎょうてん)・舜典(しゅんてん)・大禹謨(だいうぼ)、臬陶謨(こうようぼ)・伊訓(いくん)・湯誥(とうこう)などの総称。
庾黔婁 = 梁の時の人。幼少より孝心厚く、斉に仕え孱陵(せんりょう)の令となり赴任したが、父の病を聞き直ちに官を棄てて帰り、夕ごとに北辰(北極星)を拝して父の病に代わることを祷った。後に梁に仕えて累進し散騎常侍に至った。
丘(きゅう)の祷ること久し = 『論語』述而篇第三十四章にある。孔子の病が重いと聞いて弟子の子路が、ために祷ろうと乞うた時の言葉。祷とは修身俟命の意であるから、自分は日常絶えず祷っていることになる、故に今改めて祷っても何の甲斐もない、と。
狂悖(きょうはい) = 本心を失い人しての道に外れた人でなければ。
薀(つ)みて = 積みたくわえて。

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