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『松下村塾記』
【2010/11/09 19:55】 エッセイ
『松下村塾記』
吉田松陰の述作で重要なものを列挙すると、①『講孟余話』②『幽囚録』③『松下村塾記』④『士規七則』⑤『留魂録』が先ず挙げられる。しかし、①と②は長文なのでここに掲載は出来ない。
松下村塾記の「学は人たる所以を学ぶなり」や、士規七則の「志を立てて以て万事の源と為す」などの名言があります。
今日は、『松下村塾記』の読下しを記事にします。獄中教育の体験から、人を感化・教育する自信を得た松陰はこの中で「奇傑非常の人」を輩出してみせるといっている。事実、維新の大業で活躍した人物や明治政府の指導者を沢山輩出しました。松下村塾記は「教育宣言書」といえる性格を持ったものです。結果、宣言通りになりました。末尾に「解説」を紹介しておきました。私は、授業で学生と読みます。素読ですが、それに値するものと思います。長いですが、是非最後まで読んで頂きたいのであります。
松下村塾記24.4.20





松下村塾記     (丙辰幽室文稿)安政三年九月四日 二十七歳
長門の国為る山陽の西陬に僻在りす而して萩城は連山の陰を蔽ひ、渤海の衝に当たる。其地海に背き山に面い、卑湿隠暗なり。吉見氏の、故虚にして古は甚しく顕ならず。二百年来乃ち本藩の治る所と為る。是において山産海物四方幅湊し、厳然として一都会を為す。城の東郊、すなわち吾が松下の邑たる、南に大川を帯ぶ。川の源、渓間数十里、人能く窮むるなし。蓋し平氏遺民の嘗て隠匿せし所なり。その東北ニ山、大なるは唐人山と為す。朝鮮俘虜の鈎陶する所なり。小なるは長添山と為す。松倉伊賀の廃址なり。伊賀は嘗て大内氏の将岩成豊後と数陣原に戦い、連に敗れるところとなり、遂に大将渕に投じて死す。原と渕とは今皆存すと云う。山川の間人戸一千、士農在り工商在り。昔時は分惋不平の気、今は則ち欝然靄然、発して人物を為し、煥乎として一勝区を為す。然るに吾常に怪しむ。昔時は分惋の気、流れて川と為り、峙て山と為り、発すれば則ち人物と為り、以て謂うところ一勝区を成すを。固よりそれ常のみ、苟くも奇傑非常の人起りて奮発震動し、乾を転じ坤を憾かし、以て邦家の休美を成すに非ざるよりは、将た何を以てか山川の気を一変して、其の忿惋を平かにするに足らんや。況んや萩城に隠暗にして顕はれざること、亦已に久しきをや。今は則ち厳然として一都会たれども、是れ猶ほ真に顕はるる者に非ず、特だ其の機の先兆のみ。今松下は城の東方にあり。東方を震と為す。震は万物の出ずる所、又奮発震動の象あり。故に吾謂へらく、萩城の将に大いに顕はれんとするや、其れ必ず松下の邑より始まらんかと。
去年余獄を免され、松下に家居し、外人に接せず。独り外叔久保先生及び諸従兄弟、時々過訪し、因つて共に道芸を講究す。家厳.家叔と家兄と、又従って之れを奨励せらる。吾が族の盛大なる、蓋し将に往々一邑を奮発震動せんとするなり。
初め家叔先生の徒を集めて教授せらるや、其の家塾に扁して、松下村塾と曰ふ。
家叔已に官となり、其の号久しく廃せり。外叔已にして邑の子弟を会して之れを教へ、其の号を沿用す。頃ろ余に命じて之れを記せしむ。
松下村塾24.4.25


余曰く、「学は人たる所以を学ぶなり」。塾係くるに村名を以てす。誠に一邑の人をして、入りては則ち孝悌、出でては則ち忠信ならしめば、則ち村名これに係くるも辱ぢず。若し或いは然る能はずんば、亦一邑の辱たらざらんや。抑々人の最も重しとする所のものは、君臣の義なり。国の最も大なりとする所のものは、華夷の弁なり。今天下は如何なる時ぞや。君臣の義、講ぜざること六百余年、近時に至りて、華夷の弁を合せて又之を失ふ。然り而して天下の人、方且に安然として計を得たりとなす。神州の地に生れ、皇室の恩を蒙り、内は君臣の義を失ひ、外は華夷の弁を遺るれば、則ち学の学たる所以、人の人たる所以、其れ安くに在りや。是れニ先生の痛心せらるる所以にして、而して余の之れが記を為らざるを得ざるも、亦ここにあり。噫、外叔先生、誠に能く一邑の子弟を教誨して、上は君臣の義、華夷の弁を明かにし、下は又孝悌忠信を失はず。然る後奇傑非常の人、起つて之れに従ひ、以て山川忿惋の気を一変し、邦家休美の盛を馴致せば、則ち萩城の真に顕はるること、将にここに於いてか在らんとす、豈に特に一勝区一都会のみならんや。果たして然らば、則ち長門は僻して西陬に在りと雖も、其の天下を奮発して、四夷を震動するも、亦未だ量るべからざるのみ。余は罪囚の余、言ふに足る者なし。然れども幸に族人の末に居れり。其の、子弟を糾輯して、以てニ先生の後を継ぐがごとくんば、即ち敢へて勉めずんばあらざるなり。」と。外叔先生曰く、「子の言は則ち大なり、吾れ敢へてせざるなり。請ふ邑人に切なるものを聞かん」と。余曰く、「古人月旦の評あり。今且く子弟の為めに三等を設立し、分つて六科と為し、各々其の居る所を標し、月朔に昇降して以て其の勤惰を験せん。曰く進徳、曰く専心、是れを上等と為す。曰く精励、曰く修行、是れを中等と為す。曰く怠惰、曰く放縦、是れを下等と為す。三等六科、志の趨く所、心の安んずる所、為して可ならざるなし。誠に邑人をして皆進みて上等の選たらしめば、則ち吾れの前言未だ必ずしも其の大を憂へざるなり」と。先生く、「善し」と。因って併せ記す。安政三年丙辰九月、
吉田矩方選す。

<概略要旨>
長門の国は僻地であり、山陽の西端に位置している。そこに置く萩城の東郊にわが松本村はある。人口約一千、士農工商各階級の者が生活している。萩城下は既に一つの都会をなしているが、そこからは秀れた人物が久しく顕われていない。しかし、萩城もこのままであるはずがなく、将来大いに顕現するとすれば、それは東の郊外たる松本村から始まるであろう。私は去年獄を出て、この村の自宅に謹慎していたが、父や兄、また叔父などのすすめにより、一族これに参集して学問の講究に努め、松本村を奮発震動させる中核的な役割を果たそうとしているのである。
叔父玉木文之進の起こした家塾は『松下村塾』の扁額を掲げた。外叔久保五郎左衛門もそれを継いで、村名に因むこの称を用い、村内の子弟教育にあたっている。その理念は「華夷の弁」を明らかにすることであり、奇傑の人物は、必ずここから輩出するであろう。ここにおいて彼等が毛利の伝統的価値を発揮することに貢献し、西端の僻地たる長門国が天下を奮発震動させる根拠地となる日を期して待つべきである。私は罪囚の余にある者だが、幸い玉木、久保両先生の後を継ぎ、子弟の教育に当たらせてもらえるなら、敢えてその目的遂行に献身的努力を払いたいと思う。 (『吉田松陰』 古川薫著 創元社刊)

<解 説>
「松下村塾記」は、当時松下村塾の名で以て私塾を経営していた外叔久保五郎左衛門の求めに応じて松陰が書き贈ったものである。それは村の名前を冠した塾の教育の理想とその責務の大きさが述べられており、その抱負はまことにおおきい。文章もまた雄渾で口誦して士気の高まりを覚えるものがある。松陰自ら、「略ぼ志す所を言ふ」(小田村伊之助宛書簡、安政三年十一月二十日)と述べており、自信作であると言えよう。
ここで松陰は、教育の使命を、君臣の義をわきまえ、「華夷の弁」を明らかにした「奇傑非常」の人を育成するところに置いている。この考え方は後に自ら主宰者となった松下村塾においてはもとより、彼の終生変わらぬ教育観であった。
(『吉田松陰撰集』(財)松風会刊行より)


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